JR東海道本線の東京と国府津の間で唯一のトンネルが横浜市にある清水谷戸トンネル。上り線のトンネルが1887 (明治20) 年に、下り線のトンネルは1898 (明治31) 年に竣工。日清戦争の前後という時代、現役の鉄道トンネルとしては国内最古で土木学会選奨土木遺産。
次は戸塚側の西坑口。ススキに阻まれたが左が最古の上り線、ピラスターと笠石は地味め (草木が枯れ果てる真冬に行くべき)
笹子トンネル (1902年竣工) のような重厚な扁額はない。
全長 213.7 m、もともと複線化を前提に用地は取得されていたということで、完成時期と形状 (逆U字と馬蹄形) は違えど隣接している
次は大正11年測図昭和6年修正測図2万5千図「横濱西部」Stanford Digital Repository から。
保土ケ谷から境木に登る小径が旧東海道の権太坂。清水谷戸トンネルの北西に品濃トンネル (978 m)。のどかな時代
このトンネルは保土ケ谷区と戸塚区 (当時は鎌倉郡川上村) の境、つまり武蔵国と相模国の境にあり、帷子川水系と境川水系の分水界でもある。権太坂もこの分水界を越えるための坂。
清水谷戸の名は、戸塚区品濃町の小字である清水谷に由来するようだ (横浜市町区域要覧 1 - 63)。
保土ヶ谷駅は標高 6 m 程度、そこから 4 km 弱の清水谷戸トンネルは標高 40 m あまり。勾配は10パーミルほどだと思う。
地理院の「自分で作る色別標高図」で見ると、保土ケ谷側は大きく切り下げられ土被りは小さいのが分かる
磯子から新横浜を経て鶴見を結ぶ道路 (環状2号) がトンネルの上を通っている (1998年開通) が、短い橋梁がトンネルの線形に並行して斜めに架けてあるのが上記マップの Plateau タイルでズームして見れば分かる。
盛土して土被りと荷重を増したら清水谷戸トンネルが縦につぶれ横に広がる変形の恐れがあるから (品濃トンネル上部も同様に) 架橋したのではなかろうか? シロウトの想像にすぎないけれども。
次は保土ケ谷側の東坑口。真上に環2の橋梁 (植生のため桁下がどの程度か分からない)、その右 (新横浜側) は盛土擁壁になっている
地形図は、こうした斜交する現代的橋梁を現実寄りに描画することはなく、河川等と直交して架橋するのが当然だった時代のままの道路橋記号 (伝統的な地図記号の概念を刷新すべき時代なのかも)。また実際に環2を運転しても橋の上を走っていることを認識できない。
なお朝倉・佐藤「鉄道コンクリート構造物の変状と補修・補強方法」(『コンクリート工学』Vol.31、No.7、1993) によると、JR各社合わせ約3,800のトンネルのうち 39 % に変状があって、その原因は地圧などの外力の作用、覆工材料の劣化、漏水凍害の3種類に大別されるとのこと。うち地圧には塑性圧、偏圧、水圧などといった要素があるらしい。
清水谷戸トンネルは緻密な検査とメンテナンスが継続的に実施されているのだろう (と信じたい)
おもいきりズームしても撮影技術がないのと鋼管支持物で苦しい。アンダー気味なので少しレタッチしたが、下り線ポータル左に名札が
今回は被写体である坑口まで約 200 m の距離があるため、およそ10年ぶりくらいに EOS Kiss X2 と 55 - 250 mm レンズを持ち出した。
このカメラのバッテリー充電器をゴソゴソ探していたら、古い名刺ホルダーが出てきた。次はたぶん十数年前の
ロクでもねぇ仕事してたんだなぁとあらためて思った。
ほかにも鬼籍に入った人の名刺がいくつもあり、当時勤めていた会社は私が辞めた後につぶれたし、この世の無常と虚無や、歳月の流れをしみじみと感じた。
それにひきかえ清水谷戸トンネルは137年目 (sustainable)