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えびの、加久藤の今昔

公開日: 2024年10月28日

明治35年測図昭和10年部分修正測図参謀本部5万図「加久藤」Stanford Digital Repository から

この図郭にある西諸県郡の飯野村、加久藤村、真幸村はもともと薩摩。明治の初期には鹿児島に属したり宮崎に属したりややこしい経緯があったようで今は宮崎県えびの市。昭和41年に3つの町が合併し「えびの町」となり、さらに昭和45年に市制を施行したとのこと

現行の地理院地図、えびの市は湧水町および小林市との境界がいまだに未定

このあたり、宮崎と熊本の境界はことごとく分水界 (紫色のざっくりしたトレース) と一致しない。
林業の衰退にともない山間部の集落はかなり消滅している。山間部にストリートビューが入り込んでいないのは民有林が多いためではなかろうか? 拘留孫神社は国内で二番目に古い禅寺とされるらしいが、薩摩に属しているうちに廃仏毀釈をくらったようだ。

「えびの」の名は穂先をエビ色に染めたススキが由来らしい。南隣の古い図郭「霧島山」では飯野村の南端に

霧島山5万図から

「海老野」の注記、これをひらいて「高原」を足したということか。現在の地籍は、えびの市大字末永みたい。

川内川水系と大淀川水系の分水界はあいまいなところがあるのだが

国土地理院地図から

川内川左支の池島川上流が大淀川左支の石氷川に接続している。宮崎県県土整備部河川課「河川等指定調書」(令和6年4月1日現在) によると池島川の上流端は「小林市南西方字榧の木」となっており、つまり分水界をまたいでつながっているのが人工的に開削された疏水「飯野溝」ということになる。石氷川の水が北西の飯野地区の田んぼへ流れる農業用水のようだ。段丘上に位置する飯野は水に乏しかったようで、享保水路もある。
飯野溝も吉都線も分水界の最も低いところにルートを取っているのは道理。

えびの市 によると、1554 (天文23) 年に霧島山御鉢が噴火、真幸一帯に地震が起き昌明寺地区の岩間から湯が湧き出たのが宮崎県で最古の吉田温泉との由 (ただし1886年の内務省衛生局編『日本鑛泉誌』では「湯ノ元鑛泉」の名で出ており発見は慶長年間となっている。古い地図にもうひとつ鑛泉符号があるが、湯ノ元鑛泉が吉田温泉と同一なのかよく分からない)。
京町温泉は今年で開湯106年、泉源数も県内随一で種田山頭火の「ありがたや 熱い湯のあふるるにまかせ」という句碑があるそうだ。
吉松にかけて多くの温泉が観光資源というより生活インフラとしてなじんでいる。こういう地域は魅力的。

えびの地震が1968 (昭和43) 年に発生し、真幸と吉松地域に激甚な被害 (えびの市で328箇所の山腹崩壊、死者3名) があったとのこと。その4年後には集中豪雨による被害 (死者4名) もあった。

えびのと人吉を隔てる山は加久藤カルデラの外輪山、往来のむずかしさは阿蘇の滝室坂と同様なのだろう。
古い地図にも記載されている国道221号の旧道は未舗装で、ほぼ廃道のもよう。田山花袋は「加久藤峠は乗合馬車で越した」と書いている (『道路の改良』第10巻第1号、1928年) が、古い地図で掘割、現在の地図の堀切峠のことだと思う。
国道211号の加久藤トンネルが開通したのは1972年なので、それまでは旧道が肥薩線以外で唯一の動線だったのだろう。

九州自動車道の加久藤トンネルは上り線が1995年に開通、下り線が2004年に開通して4車線化。長さが 5 km 以上あるので危険物積載車両は通行できない。えびの側の南工区は軟質な地山で、上り線の工事に際し 400 mm に達する大変位を起こしたとある (トンネル工学研究論文・報告集第12巻2002年11月報告)。

肥薩線矢嶽隧道の北坑口凝灰岩、河川並行部分からの湧水についてはすでに書いた。
2020年7月の豪雨被害で運休が続く肥薩線。八代~人吉間 (被害419件) はJR九州と熊本県のあいだで復旧の基本合意がされたが、人吉~吉松間 (被害29件) は後回しになっているのが惜しい。
以下も参照を

横浜スタジアム

若い方には決して通じないオヤジギャグ
実力差が大きすぎる。ベイスターズ球団フロントは「営業第一、勝負は二の次」といったフシが見受けられる。
残念だが勝ち目はないね。

※お詫び (11月3日)  スミマセン、スミマセン \横浜優勝/