昭和47年7月豪雨災害のこと

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公開: 2022-12-23, 更新: 2022-12-23

『土木学会誌』第57巻第13号(1972(昭和47)年12月)に収録されている「現代の水害をどうとらえるか 昭和47年7月豪雨災害についての感想」(高橋裕)を読んだ。たいへん有為の論文だと思ったので、見出しごとにピックアップ

難治の川内川

まず隈之城川の合流点に触れることから始まり

7月6日の宮之城町湯田温泉における約130戸の流失によりとくに注目を浴びるようになった......
自然の地形に変更を加えることは,下流全域に,さまざまな "不自然" を強いることになるであろう。何箇所もの狭窄部での上下流の利害の対立は,問題をいっそう複雑にする

この流域の治水の困難と苦闘が概略説明されている。
なお湯田温泉は明治19(1886)年に内務省衛生局が編纂した『日本鑛泉誌』にも収録されている古い温泉

『日本鑛泉誌』から

自然湧出の温泉は沢や川に沿うことが多いので、洪水や土砂災害で押し流されるものも少なくない。しかし湯田温泉は河道から少しセットバックして今は復活している。

ダムによる洪水調節の効用と限界

鶴田ダムの功罪が指摘され、当時からダムと治水の関係がややこしかったことがうかがえる

ダム放流をめぐる紛糾はなにも本年に限らない。従来もしばしばこの種の争いが発生している。それぞれのケースのなかには若干の特殊例もあるが,一般的にこれらの原因を考えてみると,一つにはダムの洪水調節に対する期待が大きすぎるといえる。ダムの調節機能はかなり限られているにもかかわらず,ダムができるとその下流側では,どんな豪雨に対しても洪水が縮小されるかのように期待する

現在でもなお敷衍できる話だ。ダムの機能について私も完全に理解できているとはいえないので、勉強しよう。

斐伊川の土地と水の長い歴史

島根県、宍道湖に近い下流域は天井川として有名

中国地方では7月9日から15日にかけて梅雨前線が執拗に南へ北へと移動し,総雨量は 300mm から 700mm に達し,全域にわたって各河川とも異常な増水をみせた...... 斐伊川は,河道部のピーク流量こそ計画をかなり下回っていたが,まれにみる長雨のため宍道湖があふれ,松江市内で2万戸が浸水,長いところでは浸水期間は1週間に及んだ

陽の広島側は花崗岩質(マサ)の土壌で土砂供給が多いが、陰の島根側も同様らしい。鑪(たたら)製鉄の影響もあるのだろう

この川の治水を考えるにあたっては,少なくとも寛永12年(1635年),同16年(1639年)の大洪水以来の洪水と治水の角逐の歴史をふり返り,そこにみられるこの川と土地の特性を理解しなくてはならない。寛永大洪水が今日のような斐伊川東流を決定づけたといわれている。つまり,それ以前には現在の神戸川筋に斐伊川が流れていたこともあり,洪水ごとに下流部の流路は変っていたと思われる。延宝2年(1674年),松江を泥海と化した大洪水は天神川開削の契機となり,さらに,享保8年(1723年)から天明5年までの62年間に12回の洪水は佐陀川開削の事業をおこさせ,文政9年(1826年)の大洪水が新川開削の動機となった。しかし,佐陀川の放水路としての効果は必ずしも大きくはなく,新川もやがて滞砂による河床上昇に悩み,昭和15年廃川となってしまった

昭和9年修正参謀本部5万図「今市」Stanford Digital Repository から一部。川跡村という名が直截的

宍道湖の西部

新川跡は旧河道だが天井川ゆえ周囲より高い。下のマップ中の陰影起伏図を On にするとよくわかった。今は最下流部に空港滑走路があるが、地盤はどうなのだろう?

神戸川放水路が斐伊川水系全般の治水上きわめて有効であることは言をまたない。とはいえ、斐伊川下流部の洪水と土地利用変遷の複雑な歴史が物語るように,放水路掘削のみしか考えないような一元的治水では,問題の解決にならないであろう

斐伊川放水路が完成したのは、この論考から41年後の2013(平成25)年6月。これにより現在の河川法上では西隣の神戸川も斐伊川水系に含まれるそうだ。斐伊川本川の集水域をトレースしてみたら思いのほか広く、そりゃ出口は堆砂しますよね

(1974~78年の航空画像を見ると、天草や丹沢などの被災地に表層崩壊や荒廃の痕が見られる)

一般被害調査の重視

被災状況のデータを回収することは初めの一歩だと思うが

広義の治水は,必ずしも治水施設を築くことのみでなく,土地を地上げするとか,場合によっては補償的救済に依存するほうが,かえって効果的なこともありうるのである

自然災害には地震や津波など他の態様もあるので、なかなか簡単ではなかろうと思う。

犠牲者の多い土砂崩壊

7月豪雨による死者行方不明者443人中,土石流によるものは374人,すなわち84%にも達する......
災害の皮切りは,高知県土佐山田の崩壊による二重遭難であった......次いで,宮崎県えびの,熊本県天草,さらに愛知県小原村,神奈川県山北町の崩壊へと続く。このなかで犠牲者112名で最も多く,悲惨をきわめたのは天草である

土佐山田とは繁藤駅の、えびのは真幸駅の、愛知県小原村は現在の豊田市の災害を指している

天草上島でとくに災害の大きかった姫戸,龍岳,倉岳町における集落の分布状況の特徴が印象的である。海岸寄りの急斜面,俗にいう受け盤の麓に部落は集中し,反対側の緩斜面,いわゆる流れ盤にはまとまった部落は少ない。受け盤側のほうが,土地,水,漁業などあらゆる面ではるかに有利であるからだ。そして,今回の土石流の大部分は受け盤側に起っている。しかし,部落は受け盤側に任意に形成されているわけではない。棚底の例にもみられるように,一般に古い部落には周到な立地選択の跡が見受けられる

天草の地質がとくに脆いというわけでもなさそうだが、集落の存在には理由がある、という指摘は重い。続いて丹沢については

「箒沢の崩壊で犠牲になったのはすべて分家です。本家の家々は無傷でした」......箒沢は上,中,下のブロックに分かれ,室町時代から明治までは現在の下の部落だけであったという。明治42年に火事があり,危険分散の意味も含めて,何世帯かの分家によって中の部落が形成された。それまでは1軒しかない区域であった。今回の土石流はこの中部落を押し流し,本家の下部落はほとんど無傷であった......
昭和46年9月の尾鷲の土石流においても,賀田地区の被災部落は......昭和35年ごろ形成された次,三男の部落であった

私の実家は分家だが、たしかに立地は本家より悪く、裏山が土砂災害警戒区域に指定されている。
なお長男と三男は小学校長を務めているが、次男の私だけがダメ人間だ(世間の荒波に押し流されっぱなし)

被災地をみての感想

論文のまとめは

科学技術は何事をも解決しうるかのごとき錯覚に陥ってしまい,各地域ごとに育くんできた自然に対する生活の知恵や,日本において育った自然に対する技術思想を放擲してしまったのではないか......
現代科学は数量化された理論に偏重し,現代技術は構築の論理に走る。そこから,数量化できないものを軽視し,施設を築くことによってのみ,すべてを解決しようとする思想が根強く支配する。そこで,大きなダムや堤防を築くこと,大排水機場を設置することが治水の目標であるかのような妄想に落ち込む

この論考から半世紀が経った今も、将来も、自然災害はかわらず発生する。
災害に対して強くなった部分もあれば、弱くなった部分もあるのだろう。
とくに「自然に対する生活の知恵」を失っているから、予報予知や官の指示へ過剰に依存するのではないかと思う。親方日の丸さえもが自然を数量化できると考えているんじゃないの? と思わされるふしもある(勝てるわけないのに)

出典=『土木学会誌』第57巻第13号。「自然災害伝承碑データを表示する」および「川内川の流域と分水界を描く」も参照を。

余談

本日、中洲産業大学人文学部地理学科フィールドワークを実施@広沢寺温泉玉翠楼(厚木市七沢2607)>Link

広沢寺温泉玉翠楼

専門家が言うところ * の「水温が高いばかりでなく pH は10にも達し異常な性質を有している」高アルカリ性の風呂につかってきた。
同行した娘氏によると、露天の女湯を独泉したそうだ。
以下に所見を述べる

  1. 美肌効果は54歳のオッサンよりも25歳女子のほうが顕著にあらわれる
  2. 帰り運転する? と娘氏に訊いたら全力で首を横に振られた。生産性や労働意欲を抑制する温泉の効能といえよう
  3. さらに娘氏いわく「また行きたい」とのことで、温泉が常習性ないし中毒性を有する可能性を否定できない

南隣の七沢温泉は 10月に訪れた。厚木の地下には何かがあるんだろうねぇ(解明しなくていい)
地理院地図の温泉記号一覧マップ」もどうぞ。
* 「七沢・鶴巻の温泉・鉱泉」(PDF、平野・田島・大木、1967、神奈川県温泉地学研究所)