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大月市の猿橋と岩殿山

公開日: 2024年10月21日

刎橋 (はねばし) は、川の両岸に埋め込まれた刎木 (はねぎ) という部材を下段から少しずつ伸ばして重ね、せり出して橋桁を支えるもの。
次は土木学会「戦前土木絵葉書ライブラリー」から、おそらく1900 (明治33) 年に架け替えられた木造の猿橋。3列4段となっている刎木の間には枕梁 (まくらばり) という部材が格子状に組まれ、これらの腐食を防ぐための屋根がつけられている

戦前土木絵葉書ライブラリーから猿橋架橋構造の写真

次は文化財建造物保存技術協会 編『名勝猿橋架替修理工事報告書』(大月市、1984年10月) 国立国会図書館デジタルコレクションから。この工法なら川の中に橋脚を立てる必要がない

名勝猿橋架替修理工事報告書から図面

現在の猿橋は1984 (昭和59) 年に架け替えられ、長さ 30.9 m、幅 3.3 m。嘉永4年 (1851) の出来形帳に従った復元で、鉄筋の表面に木皮が貼り付けられているとのこと。3列ではなく2列4段に組まれており、その仮組の写真もあった

名勝猿橋架替修理工事報告書から仮組

完全な木製ではないからといって価値が損なわれるものではないと思う。むかしは島々の雑炊橋など全国各地にあったという形式を維持しているというだけでも意味はあるだろう。なお山口県内や熊本県内などには石造の刎橋が現存しているそうだ (玉名市の十六橋 など)。
奇橋などと呼ばれるのもどうかな、と思う。腐朽や荷重の耐性に劣るだけで物理のロジックにかなった構造ではなかろうか?

次は現在の右岸側の刎木 (鉄筋だが)

猿橋右岸側

中央の橋桁

猿橋の橋桁

一説では西暦600年ごろから橋はあったらしいが、吊り橋ではなく刎橋を伝統的に選んできた理由は何だろう? 木材が豊富で調達が容易だったのか、橋桁を落とせば要害となりうる戦略的な理由だったのか?

橋桁の上から桂川の上流側を見下ろす。左岸 (右) は凝灰岩。水面からの高さは 30 m なのだそうだ (ふつうに怖い)

猿橋から桂川の水面

右岸には8,000年ほど前 (遠藤・村井、1978) に富士山が噴火した際の「斜長石の斑晶が目立ち黒灰色を呈する猿橋溶岩」が礫層の上にあるというのだが、これかな?

猿橋溶岩

地質図でも火成岩の末端

猿橋のすぐ下流には八ツ沢発電所第1号水路橋 (一連の施設は重要文化財指定)。1912 (明治45) 年竣工、延長 63.63 m、断面寸法は幅 5.45 m、高さ 3.03 m、この時代では珍しく鉄筋コンクリート製

八ツ沢発電所第1号水路橋

狭窄部なので猿橋のすぐ上流に県道の新猿橋が、水路橋の下流側に国道の新猿橋がある。むかしはさらに中央本線の旧線もトラス桁で架かっていたとのこと。

次は岩殿山。礫岩の岩壁はともかく基部のあたりが脆いみたい

岩殿山遠景

1972 (昭和47) 年に地すべりが観測され中央自動車道を閉鎖し緊急抑止、2017 (平成29) 年には台風5号による土砂崩れで通行止めになっていた。下り線の岩殿トンネルを出たあとがあぶないようだ。

むかし新宿で山岳写真家の白簱史朗氏から寿司をごちそうになったことを思い出した。5年前に亡くなられたが、大月のご出身だった。