大正10年測図昭和4年鉄道補入参謀本部2万5千図「原町田」Stanford Digital Repository から。
この当時は都市化の前で地形が自然をとどめており境川はおそらく自然河川の状態に近く、恩田川の上流は町田川の注記となっている。
小田急線と横浜線はあるが、こどもの国線や東急田園都市線はまだない。
幹線道路は国道16号の前身である神奈川往還 (八王子街道) と、国道246号の前身である大山街道くらい
古い地形図には相模野台地に大沼と、その東側に小沼がある。その成因は何だったのだろう?
Wikipedia によると
これは地下の宙水に由来するものであり、全般に地下水位が非常に深い台地上面にあって、この周辺は浅い位置で地下水が得られる。相模原台地上にはこのほかに「小沼」(南区若松二丁目)、「菖蒲沼」(中央区淵野辺五丁目)、「鹿沼」(中央区鹿沼台二丁目)など、宙水に由来する大小の沼が散在していたが、公園内の池として整備された鹿沼以外はいずれも1970年代までに埋め立てられ消滅した。大沼も20世紀前半には水田として利用されていたが、1960年代後半以降、埋め立てられ宅地化した
なるほど。ローム層に透水性の低い粘土質の層があるようだ。青山学院の西、菖蒲沼の跡は現在では宅地。
古い地図では湧水がある滝の沢の西側に「境川」の字 (あざ) がある。今は木曽東という地籍になっている
玉川学園や相模大野など開発された現在では、森林や農地のほうが少ない。
この図郭の範囲は起伏に乏しくフラットに近いように見えがちだが、相応の比高をともなう凹凸がある。現実の空間では、とくに武蔵側は自転車泣かせの坂道がとても多い (四半世紀前に比べ、普及した電動自転車の利用者が非常に増えた印象がある)。
相模野基線の北端点

北端点とは一等三角点「下溝村」のこと

この地域は私の生活半径なのだが、まだまだ未知のことが多い。
「三角測量の原点、相模野基線」と「相模野基線と最古の三角点めぐり」および「境川水系の急坂」や「町田市の水路、びゃく、文化財」や「露頭と湧水とジオサイト」も参照を。