土木学会誌の第56巻第11号(1971年11月)が発行から50年を経て一般に公開され、その中に「六甲トンネルの工事を終えてー4年間の水との闘いー」(金原弘、当時国鉄新幹線建設局工事第1課長)がある。その難工事ぶりについて簡略に記載してある。
トンネル中間部は直線とし,両端には 5000 m の曲線を使用している。
勾配は排水を考慮して最小勾配 5 ‰,最急勾配 10 ‰ とした
六甲といえば、もろい花崗岩
造山運動の衝上のため逆断層が多数存在しており,花崗岩は著しい圧砕・風化を受けているが,とくに断層上盤部の破砕がはなはだしく,破砕幅は 100 m 以上に及んでいる
相当程度の被圧水の存在が予想されたとしてあるが、現に難航し計画より約6ヵ月遅れて竣工したとのこと。
とくに と
の破砕帯が難敵だったようだ。
延長 634 m で最長の導坑であった芦屋斜坑について、
昭和43年3月24日,土砂を含む約 2 m³ / min の突発湧水に遭遇し,200 m³ の土砂で 19 m 間が浸水埋没した。その後のボーリングの結果,破砕帯の幅は 9~10 m であり,しかも 20 kg / cm² 以上の被圧帯水層であることが判明
水抜ボーリング、地質調査坑の掘進、薬液注入などで対処したものの異常出水など難工事の連続だったと記される。
鶴甲については、
大月断層に突入したが,地質は一部は真砂化または粘土化した脆弱な風化花崗岩,およびほとんどが破砕され大部分が粘土化した暗緑色の玢岩を主体とし,一部に風化したアプライトをはさんだ地形であった......
次第に湧水が増大し土砂降りとなり矢板の折損が始まり導坑支保工の座屈・張り出しが続出した。また,切羽からは鏡止めを押し破り,間欠的に濁水とともに大量の土砂が流出することの連続であった
東の丹那、西の六甲といったところか。
当時で世界第3位の長大なこのトンネル(16,250 m)は1971年7月に完成、山陽新幹線は1972年3月15日に新大阪~岡山の間が開業。
岡山から博多まで延伸開業したのは、さらに3年後の1975年3月10日。
山陽新幹線はトンネル(新大阪~岡山間の 35% にあたる 57 km)が連続して乗客としては退屈だが、そういうこと言うと先人に失礼かもしれない。
日本建設機械化協会『建設の機械化』(1970.6)によれば、施工は
1995年の阪神・淡路大震災で新幹線は8箇所の橋脚が倒壊したそうだ。大正期の関東大震災では盛土の被害が最も大きかった。地下より地上の構造物のほうが毀れたというのは、なにか意外な気もする。
少なくとも、半世紀前の国鉄の設計と技術力は当時の世界でトップレベルだったということなのだろう。
参考=神戸の自然シリーズ1 六甲の断層をさぐる(URL=http://www2.kobe-c.ed.jp/shizen/strata/dnso_org/)
こちらも参照を=東海道新幹線の線形、丹那断層とトンネルのこと、黒部渓谷の高熱隧道と小説