東海道新幹線(東京~新大阪、515km)は1959(昭和34)年4月に着工。5年半の工期を経て1964(昭和39)年10月1日に開業した。そして同年10月10日には東京オリンピックが開会した。
その1964年10月に発行された『土木學會誌』第49巻第10号は、東海道新幹線を「建設計画」、「構造物」や「安全対策」など10節に分け特集され、うち「5. 線路選定」は梅原達朗・原島竜一(国鉄大阪幹線工事局)の両氏により簡潔にまとめられている。
線路選定は昭和33年3月から始められた。東海道新幹線は全く新しい計画ではなく,戦時中に計画され一部施工された東京~下関間の弾丸列車の復活にあたるわけで,当時買収した用地が約220万m²(線路延長にして約95km分),また日本坂トンネルが施工ずみ,丹那トンネルが施工途中で中止の状態であった......
線路の決定は諸般の事情から全線同時には行なわれず,区間を区切って逐次行なわれた
主要な都市間をなるべく直線で結ぶのが経済的かつ合理的なのは自明だが、いろいろと苦労がうかがえる。
東京駅であるが,その候補地として現東京駅,品川,新宿などがあり,立地条件・施工の難易など種々検討した結果現東京駅に落着き......
多摩川~高座渋谷間は横浜駅があるが,当駅は距離をかせぐために新駅とし,横浜線によって現在線と接続する......
大局的に見れば、横浜駅に接続する必要性は確かにない。同じ第49巻第10号に「新幹線あれこれ」と題した全線試乗車中座談会の記事もあるのだが、
仁杉 この田んぼの中の駅が新横浜駅です。
尾之内 何もないですね。
仁杉 はあ,何もないんです。
※仁杉巌氏は当時国鉄の建設局長、尾之内由紀夫氏は建設省道路局長。
のちに地図を示すが、60年代の航空写真で新横浜を見ていただきたい。
高座渋谷~早川の区間は、戦時中の既買収地が大部分とのこと。うち綾瀬~小田原はモデル線区として先行して完成、各種の実地実験を行なった。
箱根外輪山の山嘴が海岸までせまり,わずかに湯河原付近に小平野があるのみなので思い切って......直線的に縫うこととし,泉越トンネルの戦時中一部導坑施工ずみの区間に取付けた
1923(大正12)年9月1日の関東大震災で根府川駅の列車転落事故が起きたが、新幹線はその現場をトンネルで避け、標高約50mで白糸川を渡っている。また座談会で「泉越トンネルは温泉余土で苦労した」との談も記されている。
※2021年7月4日追記=熱海市伊豆山の土石流災害
全線第一の長大な丹那トンネルがふくまれ,導坑がすでに約2km掘削されており,この前後の用地もすでに買収ずみであったので,これらをそのまま利用することにした。ただ三島付近に半径2000mの曲線があったのでこれを2500mに修正した
「修正」とは三島市加茂川町あたりだろうか? こちらも参照「丹那断層とトンネル」(2020年2月3日の記事)
愛鷹山麓と千本松原の砂洲との間に深い軟弱地帯があるので,線路は砂洲上かまたは山麓を通す以外になく,海岸は台風期に風波はげしく塩害が考えられるので山麓案を採用し......
沼津市と富士市の境界付近は確かに北へ迂回した凸の字の線形。
赤石山脈の東南端が海岸にせまり,なお糸魚川~富士川地溝帯の影響をうけて地すべりが多く......海岸を避けて蒲原・由比・興津・袖師の4つのトンネルで抜けることにした
岩淵は富士川付近、袖師は清水を指すと思うが、薩埵峠付近は当然のようにスルー。
草薙付近までは既買収地があるのでこれを利用し......既設の日本坂トンネルに取付けた
1944(昭和19)年に完成していた日本坂トンネル(2174m)は、1962年まで在来線が拝借していた。
牧の原台地があり,大きな地すべり地帯がある。この地帯を北に避けるか南に避けるかについて検討し,北は地質がさく雑し,選定当時小笠用水のトンネル工事も難行しているのでこれを捨て,南に避ける線路を選び......
「大きな地すべり地帯」とは、掛川市日坂のことだろうか。この区間は南へ迂回した凹の字の線形。
掛川から二川の区間、浜名湖は「港湾計画・漁業との競合を避け東海道線の山側に接近して横断することにした」とあり、ウナギの寝床にも忖度したらしい。明治22年の2万5千分の1地形図「新居町」を見ると、そもそも東海道本線はよくぞ施工したものだ。
星越トンネルは東海道線電化の際に単線トンネルを掘削して使用しているので,これを元の線にもどし,拡幅改築して使用することにした
は在来線の上りに使用されていたらしい。 と同様、リユース・リサイクル。
星越トンネル~大高の区間は、ほぼ戦時中の計画に沿ったものとのこと。キレイなストレートである。
笠寺で海側に渡り工場・団地の間を縫って中日球場付近で東臨港線の海側に取付けこれに沿って名古屋駅の裏側にはいることにした
60年代の画像で見ると まで「縫って」いるというのがよくわかる。現代なら土地収用は不可能に近いのではないか。
当初鈴鹿山脈をトンネルで通過する案も考えられたが,山が高いために途中斜坑も立坑も設置できず,15kmを越す長大トンネルを名古屋方から片勾配で掘削せざるを得ないため,工期的に不可能と認め,距離は伸びるがやむなく関ヶ原をう回することとした......
金井から養老山脈の北麓を15‰,20‰の制限勾配をいっぱいに使って登りつめ,登り切れない区間を関ヶ原トンネルとして柏原に抜けることにした。関ヶ原トンネルは地質が揉めており,多数の断層・湧水が予想されたので,入念な地質調査の結果,中心線を現位置にきめた
「木曽川以西は軟弱地帯で......ぎりぎりにかわすべく」羽島と安八を通し、揖斐川を渡るところで線路面はおそらく15mほどだろうか。東海道新幹線の最高地点は標高173.8mとのことだが、関ヶ原トンネルの滋賀側坑口付近のようだ。15‰は「一般基準」の制限。
東山トンネル京都側では現東海道線南沿いに併設となった。しかし人家密集地帯の下を通り国道1号線をくぐりさらに大谷高校グラウンド下を通りその西側に坑口を設け京阪電鉄加茂川奈良線を越えて京都駅に入ったので縦断的には16/1000で下り20/1000で上る相当苦しい勾配となった
東山トンネルに入って京都駅のホームまで3kmに満たないが、句読点を入れる余裕もないほど縦断線形の設計は苦しかったのだろう。
山崎の狭隘部は淀川と天王山に挟まれ各種交通機関が集中しており,大山崎において阪急を移設,またそのため大阪府下島本地区において,阪急京都線と併行せざるを得ないためこの狭隘部通過のため反向曲線が連続する結果となった
大山崎の付近は一見すると直線のように見えるが、ズームしてまじまじ見てみると、線路は微妙に右へ左へ振れている。
当該報告は、もちろん総花式というか、良からぬことには触れていないのだが、いろいろあったはずだと思う。
新幹線に乗車しているとき、一般の電車に比べれば左右の揺れなど微々たるものだし、勾配を意識させられることもほとんどない。関ヶ原の標高などより伊吹山に目が行くのが普通だと思う。
なお対向車両とすれ違う時の風圧は凄いが、車体どうしの(側面)間隔は800mmという設計なのだそうだ(意外に近い)。
東海道新幹線の線形など意識したことはなかったが、どういう線を引くかという作業はどうにもタイヘンなものらしい。515kmを5年半で、東京オリンピック開会に間に合わせよという至上命題もクリアしたのだから、技術と施工力は凄かったのだろう(経営的な負の側面はともかく)。
ひるがえってリニア中央新幹線、ちょっと残念というか、もっとも大切なものが分割民営化で継承されなかったのだろうか?
おまけ、座談会の一節。
杉戸 現在は東京が生活しやすいせいか,何かというと東京へ集まる傾向がある。東京へ入れないために品川あたりにバリケードなどを設けて(笑)......というわけにもゆかないので,税金を他の三倍ぐらいにするということを提案したい(大笑)......。そうすると自然に分散するんじゃないだろうか。いくらみんながキリキリ舞いしたって,現在のままでは行きずまってしまう。
一同 賛成だね(大笑)。
半世紀以上も昔から、同じことを言っている(杉戸清氏は当時の名古屋市長)。
出典=土木学会
『土木學會誌』は発行後50年を経たものがPDFで公開されているが、宝の山という感じで、とてもおもしろい。
こちらも参照を: リニアの駅とルート最終案の地図