Japanese Map Warper にタイルサービスがある。Stanford Digital Repository にはない古い図郭「直方」(明治33年測図昭和11年修正5万図) を示してみる。この当時は国鉄の幸袋線や室木線、宮田線の前身である桐野線などの鉄道網がある。明治末期まで主力だった舟運に替わり石炭を若松港へ輸送していた
直方 (のおがた) 駅から宮田を経て福丸まで鞍手軌道もあったようで1915 (大正4) 年全線開通、1938 (昭和13) 年廃止とのこと。『道路の改良』第6巻第8号 (1924 (大正13) 年) に「漫録 福岡縣下軌道巡走記 (PDF)」という記事があり、次のように記述されている
石炭様であるに違ひない、というのはそのとおりだろうと思う。しかも「さま」が普通の様ではなく「永さま」なのが時代を感じさせる。
上掲の古い地図では車道の粥田橋とは別の橋梁で軌道は犬鳴川を渡っている。粥田橋は昭和28年の大水害で落ちた。
この軌道が廃止されたあとは長らく国鉄バスが直方と博多を結んでいた。今はJR九州バスが引き継いでいるようだ。
なお鞍手軌道は運炭ではない軽便鉄道だが「日本国内の廃止された鉄道路線と駅を一覧表示するマップ」にも書き込んでおいた。
犬鳴川はむかし鶴田から南良津にも流れ遠賀川に注いでいた (地図中の紫色 Polyline) が、1763年の大洪水で現在の流路となったようだ。
むなかた電子博物館「宗像・沖ノ島と神から見える日本の古代 ―宗像神信仰の研究 (5) ―」(矢田, PDF, p.19) によると
縄文の温暖化時代宮若市中心部を含む遠賀川中流域は古遠賀湾の入り江となっていて、そこに遠賀川上流や犬鳴川が直接流れ込んでいたと推定されている
古遠賀湾は宮田町誌にも記載がある。鶴田がたびたび冠水に見舞われてきたのも、最近では宮若市と小竹町の間で内水氾濫対策の工事をめぐる争いがあったのも、そこが「むかし河道だったから」という理由で説明できそう。
筑豊本線の筑前植木駅と新入駅の間にある橋梁の名は「若宮川橋りょう」らしい (植木交差点近く、天神橋踏切からストリートビューで見ると確かにそう書かれている)。1891 (明治24) 年の開業当時は犬鳴川ではなく若宮川と呼ばれていたのだろう。
1953 (昭和28) 年6月の甚大な洪水被害のことは「昭和28年の西日本水害と海底トンネル浸水」などで書いた。
古い地図には桐野炭坑や菅牟田炭坑、西川炭坑、岩河内炭坑などなど記載されている。中央資本は三菱、三井、住友や古河、地場資本の代表格は安川、貝島、麻生など。筑豊の石炭と八幡の製鉄が日本の近代化に大きく寄与したわけだが「筑豊炭田の古洞水について」(PDF『地下水学会誌』第31巻第4号、山下、1989年) によると
筑豊炭田では最盛期には230を数える炭鉱が操業していた。1960年頃から閉山が続き1970年には殆どの炭鉱が閉山し、筑豊における石炭採掘は終焉を迎えた。稼業時には石炭採掘によって、地表沈下、地下水の低下が起り、生活用水、農業用水の枯渇などの被害が発生したが、その当時は地表水、地下水の平衡がそれなりに保たれていた。
閉山が続出する中で、地下水の復水がはじまり、1970~1975年には地下水の上昇によって、湧水、湿田化が認められるようになり、新たな被害が発生するようになった。これらの湧水を古洞水と呼んでいる
遠賀川左岸の小竹町は水没田が多くあったもよう。
山陽新幹線の岡山~博多間は今年3月に開通50周年を迎えるが「山陽新幹線,岡山博多間の路線地質概要」(PDF『応用地質』第12巻第1号、池田・大島、1971年) によると
...筑豊地区は古第三紀の炭田地区であり,過去の採掘に伴った地表沈下が問題となっている...
小倉と博多を結ぶ際は,どこを通しても避けられないのが実情であったが...
室木トンネルはその地下を採掘していたようであり,地山内の応力が現在なお再配分中であることが予測されるので,完成後のトンネルにどのような影響があらわれるかが問題とされるところである
半世紀が経過、室木トンネル地下の古洞水は問題なかったということなのだろう。
山陽新幹線福岡トンネル東坑口、破砕帯の難工事については「開業50周年が近い山陽新幹線の岡山~博多間」で少しだけふれた。
図郭の北部に「きん」鉱山記号がある。宗像市 によると、河東鉱山は江戸時代に福岡藩の金山として開発され、昭和30年代まで銅・鉛・亜鉛鉱石が採掘されていたとのこと。関門層群の下関亜層群の輝石安山岩類と脇野亜層群の泥岩みたい。
宗像は北九州と福岡の中間にあるため電波が弱く混信もあったとのことで、許斐山に中継所が設けられているらしい。NHKは北九州局ではなく福岡局のようだ (そもそも県内に放送局がふたつあるのが珍しい)。
赤間町のすぐ南の集落は「釣」の注記になっている。今は徳重という地籍となっているが、釣川の名の由来はここかな?
上記の図郭中には熊ヶ城や笠木城などの山城、竹原や百塚や剣塚などの古墳が数多ある。高精細のDEMが整備されたら新たな未知の発見もあるのではなかろうか。
離れて40年ちかくも経つと、故郷とはいえいろいろ忘れている。たまに帰省すると記憶の風景とはかなり変わっていて、私が通った小学校も中学校も今はない。変わらないのは犬鳴川や福智山などの山河くらい。
ついでに「遠賀川の流域と分水界」も参照を。
はんぺんを食べる文化が九州にはない...と、むかし豆腐製造会社で働いていた母が言っていた。今はどうなのか知らない。
食文化で地方の独自性が失われ全国で平均化が進むとつまらない。
うまかっちゃん、ふつうは九州地方でしか売られていないが、ハウス食品の販売戦略は正しいと思う
ただし首都圏ではドンキホーテで入手可能。ありがたいが少々残念でもある。
横浜から福岡へ何か贈ろうと考えた場合、関東の農産物や海産物を送っても意味がない (九州産のほうが美味いから)。
しかたないので、ありあけのハーバーとか鳩サブレーなどになってしまう。