関東地震は今から100年前、1923 (大正12) 年9月1日に起きた。
国土地理院から配布されている自然災害伝承碑の geojson データのうち、関東大震災に関連するものは次のマップに示すとおり
震央について気象庁では「北緯35度19.8分、東経139度08.1分」とされているが、諸説あるようなのでマップには書き込まない。
同年の『道路の改良』第5巻第3号に「彙報 震災日誌」がまとめられている。
9月1日、午前11時58分に発生
9月2日、非常徴発令など公布
9月3日、関東戒厳司令部条例など公布。日清日露戦争を経験した海軍出身の山本権兵衛が二度目の総理大臣に就任している
9月4日、神奈川県下震災調査概数表。
この時点で県内の死者は28,711人、うち横浜だけで24,380人。伊勢佐木町署管内が最も被害が多かったとはよく言われる
7日には治安維持のため騒擾や煽動を禁じる勅令も発出されている。公衆道徳という点で令和の現代よりも昭和後期はずっと劣っていたように思うが、大正時代はさらに粗野で粗暴だったのではないかと個人的には想像している。
11日には「地震に就て中央気象台発表」とあり、
「今直ちに予報的の言を為すは無謀ならむ」とあるが、100年後の今でも根本的に変わらないだろうと思う。
震災日誌は15日までの概要が記されているが、中には「水死体片付昨五日中東京市に於て河川中に漂流せる死体百六十五を収容したるが作業頗る困難なれど船二十隻を使用し鋭意努力中」だとか「九月七日午後四時迄に取片付を了したる死体の数は実に四万八百六十七、内本所相生警察署管内に於ける分は三万五千五百六十三を算せり」などといった記述もある。
詳しくは当該 PDF を通読してください。記載内容、とくに数字が正確か否かはともかく。
秦野市今泉にある寺田寅彦の句碑「山さけて成しける池や水すまし」
今年は各メディアで特集されると思うが、きっと東京の目線で東京中心のものになるだろうから、以下に神奈川の記録をいくつか拾う。
『土木建築工事画報』第1巻第3号から。馬入川はもともと相模川の右支川を指すのではなかろうか
築堤、盛土の損害がひどかったということは以前にも触れた。当時の「鉄道省東海道本線」とは現在のJR御殿場線のことで、次の写真はおそらく現在の相模金子駅のあたりだと思う
白糸川橋梁は根府川駅のすぐ南。駅舎と列車を海中に押し流した土砂崩れとは別の、大洞山の崩壊による土石流に襲われたというもの。
トラス桁がひっくり返っている
2023年4月現在の白糸川橋梁
次は『土木建築工事画報』第1巻 (1925年) 第8号から、当時の「熱海線」とは現在のJR東海道本線のこと。
十哩二十五鎖 (10 miles 25 chains ≒ 16.6 km) は国府津起点のことだろうから、トレースして距離を測ると、真鶴トンネルが出来る前の旧線だと思う
早川駅
『道路の改良』第6巻 (1924年) 第1号から、酒匂橋は左岸だけでなく右岸も同様に落ちたとのこと
当時は自動車が普及しておらず輸送の主役は鉄道だったが、これが各所で損壊したため陸軍や海軍も動員されたようだ。
しかし横浜港なども相当な打撃を受けたことが上記の各誌に記されている。
概して東京と横浜は火災による被害が、国府津~真鶴は土砂崩れや構造物の損壊による被害が多かったと考えてよいのだろうか?
以上は土木の視点からのものだが、震災は各論だけでなく行政や医療や自然科学などもあわせ多元総論的に俯瞰しないと理解を誤りやすいのだろうとは思う。なお私は防災について何かを言いたいわけではなく、ただアウトラインをつかみたいだけ。
出典は以下の土木学会サイト内 (https ではないので直接リンクしない)
道路の改良 http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/dokai/
土木建築工事画報 http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/
土木貴重写真コレクション http://library.jsce.or.jp/Image_DB/koshashin/
この震災については 熱海市伊豆山の土石流災害 や 新東名高速道路の高松トンネル、寄、震生湖 でも少しだけ触れたが、もう触れない。
自然災害伝承碑データを表示する も参照を。