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小渋川、大鹿村、中央構造線

公開日: 2025年5月25日

中央構造線に沿った長野県下伊那郡大鹿村の周辺。1961 (昭和36) 年6月の集中豪雨によって、いわゆる「三六災害」が発生。
荒川大崩壊地や百間洞を源流とする小渋川は、北西へ流れ下市場で青木川と合流し北へ転向する

次は陸地測量部、明治43年測図昭和5年修正5万図「大河原」Stanford Digital Repository から

大西山の山塊は小渋川左岸の攻撃部にあり、基盤崩壊が起因との説がある (『建設技術者のための地形図読図入門』鈴木隆介著、古今書院、1997)。
三六災害によって大西山は大崩壊し42名が死亡。崩落による風圧で家屋が吹き飛んだという。それよりも古い上掲の地形図を見れば、現在より小さいが「崩土」の符號が記されている。もともと崩れていた箇所がさらに大規模に崩壊したということか。
また川だから時代を経ると流路が変わるのは当然だろうが、小渋川が青木川と合流していたのは現在より西に見える。合流点で水流の強さが増幅するのはどこも同じだろうと思う。
ほかにも、鹿塩川の上流に位置した北川や中川村の四徳といった (樺や楢といった木で椀や盆を作る「木地師」が居住していた) 集落が三六災害で壊滅的な打撃を受け、のちに廃村となったとのこと。

国土交通省中部地方整備局天竜川上流河川事務所のすばらしいアーカイブ『語りつぐ天竜川』の中に、第20巻「小渋川水系に生きる-人と水と土と木と-」(中村寿人、1990年) がある

二九日朝、大西山平なぎの大崩落による空前の大災害となったのである…
一瞬「ズドーン」という何とも言えない不気味な物音が大きく響き、校舎が震えたかと身に感じた。何事だ。嫌な予感がした…
校舎に続く体育館の西側の壁は全く吹き飛ばされて外部が見えているではないか

著者は大鹿村生まれで41年間にわたり小学校教員として勤務されたとのこと。村内の激甚な被害について詳細に述べられている。
なお三六災害より昔から災害は多発していたとあり、慶応4年、明治15年、大正12年、昭和4年、同13年、18年、20年、27年などの事例が列記されている。

次は昨年7月に航空機内から安物スマホで撮影した小渋ダムと右支の鹿塩川

小渋川空撮

明治時代に大河原村と鹿塩村が合併した大鹿村は、北は分杭峠、南は地蔵峠という難所に隔たれ、小渋川に沿った県道59号が伊那谷への唯一の出入口。村役場の位置は少々危険に思えるが、他に好適地もないだろうか (上掲の写真下端、鹿塩川が小渋川に合流するところ)。

小渋川の流域は三峰川と同様に崩壊地だらけ、構造線の東側は地すべり地形だらけで池塘も散在している (鉱山跡も)。標高 1,500 m を超える高所に北川牧場、黒川牧場、向山牧場が記載されているが、どうやら大鹿村営牧場らしい。地形のうまい使い方か。

『語りつぐ天竜川』第8巻「村境は不思議だ」(平沢清人) には、写真家で童画家でもあった熊谷元一氏の挿絵がある。その長男の熊谷博人氏は装丁家で、私も編集稼業のときお世話になった。とかく南信は多士済々。

リニア中央新幹線は静岡区間が注目されていたけれど、伊那山地トンネルが構造線を横切り青木川直下の土被りが小さい区間こそがハイライトではなかろうかな? シロウトの感想に過ぎないけれど。

木地師に由来する地名など」および「長野県伊那谷の三峰川」も参照を。