長野県伊那谷の三峰川

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公開: 2023-01-20, 更新: 2023-01-20

この景色を見て「仙丈!木曽駒!御嶽!」となる人は正常だろうが

ANA機内から

「三峰川!」となってしまう私は少し異常だとは思う。

国交省中部地整天竜川上流河川事務所に『語りつぐ天竜川』第51巻「三峰川ものがたり」(北原優美編著、2000年)がある。
その第二部に「三峰川の災害と治水の歴史」が記されている。

下流ではその姿を一変し、右岸には三段の、左岸にはもう少し複雑な構成の、美しい河岸段丘を伴った広大な扇状地となっています......
その氾濫原の持つ性格が、近世の農民を苦しめた洪水・川欠けの原因でもあります

加えて人為的な要因=とくに林業とダムの影響も丁寧に説明されている

この地域の言い伝えに、「高遠藩が三峰川入りの山の木を伐りすぎたために、洪水の被害が増大した」と恨みを込めて語られています

徳川家康の命令で保科氏が天竜川を経て江戸へ木材を送った史実もあるらしい。また江戸や大坂で大火があれば高遠藩直轄の御林からも大量に木が伐り出されたとのこと。材木を扱うことがいかに投機的な商売であったかがうかがわれるとも。
また水理と蛇行の問題についても

水あたりや新山川からの押し出し、さらには左岸の川除の「出し」の具合で、右岸の川手・青島地区は川欠けにさらされます。右岸には猿猴岩からの水刎ねを受ける「猿猴請け」という川除が設けられていましたが、右岸の川除の「出し」の作り方によっては、対岸の榛原の河岸を痛めるようになります。対岸の村同士が仲良くなれなかった原因でもあります

日本各地で同様の問題が起こっていたことだろうと思われる。
明治43年測図昭和5年修正5万図「市野瀬」Stanford Digital Repository から一部。美篶村(みすずむら)を西へ向かう河道が現在ほどには直線的でないうえ、霞堤も

古地図

三峰川下流のマップ

陰影起伏図で見ると段丘がキレイで小黒川断層も分かり、三峰川右岸に霞堤の形跡が残るが、問題は氾濫面

古三峰川は新山川の合流部から現在よりも北側を流れ、伊那市駅付近で古天竜川に合流していたという。それが中世末ころの三峰川は逆に左岸に寄っていたことが古文書により分かるそうだ。

その後も度重なる洪水に襲われるが、昭和13(1938)年7月の洪水で三峰川は天竜川右岸を攻撃し大損害を与えたとのこと

三峰川と小黒川の合流点は、現在では少しずれていますが、川除の組み方で流れの方向を変え、三峰川と小黒川の二つの大きな破壊力をぶち当てて力を殺ぐという方法がしばしば取られました......
昭和一三年の災害では、三峰川の押し出しの方が強かったものと思われます

昭和33(1958)年に美和ダムが竣工した。昭和36年6月の三六水害では洪水調節機能を喪失したが、美和ダムがなかったら三六水害はもっと苛烈なものとなっただろうか?
美和ダムは今なお堆砂とたたかっている。中央構造線に沿って土砂の供給が盛んな地域だからしかたないが

ダムが出来て灌漑用水の計画配分が始まってから、農民が川の顔色を窺わなくなっているのではないでしょうか。何にしても、河川管理者の管理責任ばかりでなく、地元の住民が過去のように川に親しみ、常に川を見守っていなければ、その川の変化が実感できません

下線は私が引いた。大都市の川には少なからず暗渠があるが「顔色を窺う」ことができないという致命的な欠点がある。農民に限らず川に限らず、空や山や海などお天道様の顔色を窺うことは大事だと思う。ただし地震だけは顔がないので厄介。

以前にも書いたが『語りつぐ天竜川』シリーズは郷土史としても秀逸だと思う。
教育県といわれる長野の中でも南信は在野の研究者や文化人が多士済々、そしてエデンのような土地という印象が私にはある。

なお羽田から福岡へ向かう航空機では、富士山や太平洋沿岸の眺めは捨て中部山岳などを見るため右側の席を取る。

余談。
田園都市線すずかけ台駅の名は東京工業大が東急に要望したという由来がある。東工大すずかけ台キャンパスを称しているが、すずかけ台という地名は関東に存在せず、実際は横浜市緑区長津田町に所在している。
「東京科学大学すずかけ台キャンパス」という文字列、ちょっと仮想空間ぽい。