長野県で険悪な国道といえば、姫川に沿った国道148号(小谷村)が筆頭だと思うが、松本から飛騨高山へ通じる158号も相当なもの。
「上高地への道~一般国道158号線ダム関連改良工事報告~」(小川一(当時長野県土木部長)、太田勝巳(当時長野県土木部道路維持課))『土木學會誌』(55巻4号、昭和45年4月)*を読んだ。奈川渡、水殿、稲核の3ダム建設(1969(昭和44)年竣工)にともなう国道付替え工事の内容だが、知らないことばかりだった。
まずダムが出来る前の地形図、旧内務省5万分の1「乗鞍嶽」(大正元年測圖昭和6年要部修正、Stanford)の一部。
梓川の谷が深い。また小大野川で取水し、奈川渡で発電していたらしい。
ダム着工に先立って昭和39年4月着工し,資材集積所より奈川渡まで約16kmを車道5.5mに整備したもの......夏山シーズンに上高地への登山客が殺到するため,現道交通を確保しながらの工事は非常に困難であった。高さ数十mにおよぶ岩盤の掘削のために現道が埋没したり,現道直上約50mの付替え区間の岩盤掘削の苦心は言語に絶するものであった。特に一部付替え区間の難工事箇所「ずみの窪」地先は貫入花崗岩の基盤上にホルンフェルスが厚く介在しており,旧道当時も崩落の名所であったが,のり長30~50mの岩盤切取りを行ないモルタル吹付け工事を施工してようやく開通したが,後日大崩壊を起こし,ダム工事,道路工事に対して大きな教訓を示す事件となった。すなわち昭和41年4月モルタル吹付け面にクラックを発見し観察を続けていたが,降雨のつどクラック幅が増大し,遂には......のり留石積上にモルタル吹付け面がずり出してきたので山全体の変動と判断し,厳重警戒にあたり,交通をしゃ断したところ6月11日未明大崩壊が発生し,約10万m³の土石が新設国道を完全に埋没させ,崩壊斜面は道路延長300m,山腹のり長150mにわたる大規模な災害となった。幸い人身事故はまぬかれた
そこで、突貫工事で「ずみの窪トンネル」を完成させたとのこと。
なお、現在「奈川渡改良」が事業中(後で掲げる地図にトレースしたが、昨年7月に貫通した松本側の2号トンネルは地質図で見ると段丘堆積物の層を避けている)。何年か先これが開通すれば「ずみの窪トンネル」とその前後区間は廃道になると思われる。
ほか付替え道路工事の区域は、粘板岩・砂岩および珪質岩(チャート、縞状チャート、珪質粘板岩、珪質砂岩等)の古生層と、これを貫く花崗岩からなっていて、ホルンフェルス化しており、褶曲変形あるいは著しく破砕され、亀裂に富み、急斜の谷に侵食され、いたるところに地すべり崩壊の跡を残し、断層や破砕帯によって寸断されていたという。
加えて、ダム湛水予定日は1日も延伸が許されなかった(付替え道路の開通予定は1969(昭和44)年4月)とのこと。
奈川渡ダム天端を渡り左岸山腹を明り道路で計画されていたが,基岩がダム上流で山側に深く逃げ込み,ほとんど崖錐堆積物の上を築造しなければならないため,ダムより約150m上流からトンネルに変更し崖錐地帯を避けた......偏圧がひどくなり,H型支保工の変形が激しくなり,掘削を中断......工期の問題,将来のダム湛水(水深150m)の影響を考慮し,ダム地点直上でもあるため,ダム天端より山に直角に入る現在ルートに変更した
上高地に向かいダム堤体を渡りきるとすぐ左に進入できない道があるが、あれは当初ルートの痕跡か。
明り道路の計画であったが,非常に急峻な地形のためと,その直下を先線工区への工事用道路を通さざるを得ないこと,および6000V高圧鉄塔の移設が必要という点で比較検討の結果,トンネルに変更した
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最も困難なトンネルであったが,当初計画延長765mが,1267.7mとなり長野県の最長トンネルとなった......当初松本側坑口付近は平坦な地形のためこの部分を明り道路に計画したのであるが,ずみの窪崩壊後地質学的に検討した結果,この部分は非常に厚い崖錐堆積物で現在は安定しているが,将来ダム湛水後どのような影響を受けて不安定になるか予測がむずかしいので,将来の道路保全の確実性を考慮して避けるべきであるという点で,長野県,東京電力の意見が一致し,大幅な変更となった
「非常に厚い崖錐堆積物」とは、(1757年)の痕ということだろうか?
この流域で褶曲が最も激しく,断崖絶壁であり,当初計画により松本側坑口から着工したが,流れ目の岩盤が数mの厚さで滑落し,死者1名,重傷者2名の事故が発生した。坑口から約100mの間は小崩落崖の連続で,岩盤節理の状況からも法線を山側に追い込むべきであると判断し......変更した
実際に前川渡トンネルと木賊トンネルの間はきわめて短い明かり区間(※今年7月の豪雨で小崩落した)で、上高地側から前川渡大橋を通り乗鞍へ向かう場合には、いったん「親子滝インターチェンジ」まで走って方向転換しなければならない。
トンネル施工は、入山と奈川渡が鹿島、水道沢が大東、親子滝が熊谷組、前川渡が飛島、木賊が間組、日当窪が松本土建となっている。
マイカー規制がなかった昭和の時代、MTの原付で初めて上高地へ向かったとき、入山隧道の洞内分岐に面食らったのを覚えている。
崖錐層を明り道路で通過し,小渓流を20mの橋梁で計画したが,この崖錐層は比較的新しい地すべり地帯で,基盤まで10数mの厚さがあり,湛水による影響を考慮すると当初案は極力避けるべきであると判断し,192m区間を橋梁,桟道に変更した
この橋だけ型式がトラスドランガー桁になっており、施工は石川島播磨。
付替え158号に架かった10の橋梁工事については、急峻な地形のうえ脆弱な岩盤のため、掘削しても計画基礎高に予定した堅硬岩が出ず、そのつど大幅な設計変更せざるを得ないというケースが下部工で多かったとのこと。
ダムの建設前、1948(昭和23)年10月22日の画像(出典:国土地理院地図・空中写真閲覧サービス)
左上が前川渡、ずみの窪が右端
この報告を読んでも、やはりエイッと工事に突き進み、良く言えば臨機応変、悪く言えば場当たり的にチカラワザで竣工させる(しかも結果的に工期は守っている)というところが、私が生まれた時代のヤンチャな空気感というか、昭和の勢いを感じないではいられない。
歳月を経て安房トンネルが開通し、通年で松本と高山の往来が出来るようになったが、上高地はトランジットの場となり宿泊客が減ってしまったのは、一種のアンチテーゼかも知れない。
沢渡から中ノ湯までの区間は旧道(廃道)が随所で見られるが、線形改良の結果。また2005(平成17)年の土砂崩れで梓湖大橋を架けルートを変更するなど、今なお土砂災害は頻繁に起こる(今年7月の豪雨で中ノ湯付近も崩れ、通行止めになった)。
この国道は私も数えきれないくらい通ったが、狭隘な谷、圧迫感と閉塞感で、どちらかといえば先を急ぎたくなるところだ(そもそも停車できるような場所は極めて限られる区間なのだが)。
道路も橋梁もトンネルも、技術者と作業員の労苦によって出来ている。地図に描かれる構造物の線形には必ず理由がある。
次回訪れるときは、そこに思いを巡らせたいと思う。
*出典=土木学会附属土木図書館
こちらも参照:「長野県小谷村の国道148号」および「梓川の深層崩壊トバタ崩れ」