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伊豆半島、伊東周辺の今昔

公開日: 2025年1月14日

明治19年測図昭和19年部分修正地理調査所5万図「伊東」MapWarper から。敗戦の前年で観光開発が及ぶ前。
柏峠の旧隧道が実線 (道幅 1 m 以上) で描かれているが、明治15年開通という古いものだったようだ。峠の東側、小川沢が急峻。冷川峠経由の県道が明治39年に開通してから廃れていったらしく、現在トンネルは圧壊しているようだ

『伊東覚え書』(島田千秋、1980) では

私たちは少年のころ、この道筋を「冷川峠」といい、隧道を「冷川トンネル」と呼んでいた

と書かれており (p.112)、また隧道そのものの開鑿は明治13年ではないかと推察されている。

図郭の北西、狩野川流域の下大見村には分水界を越える道幅 1 m 以下の小径が破線でいくつも描かれているが、尾根筋を辿っているものが多い。昔から谷筋は危険だったのだろうか?

次は春の大室山

大室山

昔は大室山の東南東に凹地がいくつか記載されているが、現在は宅地造成で不明瞭になっている。岩室山は原型に近いのかな。

大室山の西北西に、いかにも Lava Dome の描画がある。現行の地形図では岩山 (602 m) だが『伊豆の大地の物語』(小山真人) によると

岩ノ山は流紋岩(りゅうもんがん)の溶岩ドームである...
発見された爆発角れき岩の地層は、その下半分は黒っぽい安山岩の岩塊や岩片からなるが、上半分は灰白色をした流紋岩質の岩塊や岩片を多く含む。つまり、噴火の途中でマグマの化学的性質が変化したのである

Esri 画像で見ると、この山体だけ周囲と植生が異なるように見える。土壌の相違に因るのかなぁ? 過去に伐採植林があった可能性もあるだろうか?

奥野ダムはロックフィルで1989年竣工、1958 (昭和33) 年の狩野川台風で伊東大川 (通称は松川) が伊東市街に大きな被害を与えたことを契機に建設されたようだ。治水防災のほかにも不特定補給、上水道用水を目的とし事業者は静岡県。原石山は旧中伊豆町だったらしい。
奥野地区27世帯が移転したようだが、奥野神社も古地図と現行では位置が違うので県道付替にともない移転したのだろう。
(もっとも、古い5万図にも雑なところがあり誤記の可能性がないわけでもない)

現行の地形図には記載がないが、一碧湖マールの水は古くから暗渠で北東の吉田地区へ導水されていたのだなぁ。60年代画像で見ると吉田地区は広い水田があるのでこれの疏水だろうと調べたら、静岡県 によると文政時代の吉田用水および吉田隧道というそうだ (つまり一碧湖は地区の財産ということでもある。60年代画像には、のちに国道135号となった有料道路東伊豆道路の料金所も写っている)。

古い地図に鉱泉の符号は伊東駅の南にふたつだけ。戦後のボーリングによる温泉掘削がいかに多いということか。

marcador

半島振興法は全国23地域を指定しているが、伊豆半島では沼津市の旧戸田村地域、伊豆市、東伊豆町、河津町、西伊豆町、松崎町、下田市と南伊豆町が含まれる。指定を受けていない伊東市は、それだけでも他の自治体と温度差があるだろうと思う。JR伊東線と地の利もあるし (半島振興対策実施地域 も参照を。個人的には静謐で素朴な西伊豆が好き)。

浄蓮の滝バス停

浄蓮の滝バス停

修善寺より南、事業中または事業化予定の伊豆縦貫自動車道もマップ中にざっくり書き込んでおいた。鉢窪山の北西麓を切るらしい。
経済の要請に従えば道路線形はなるべく最短で直線的にすべきだろうが、都市計画では天城越え区間が河津町で大きく西へ迂回する。静岡県の 環境影響評価書 (PDF) によると「重要な自然環境地域を迂回する」との記述はある (p.12) が、特段の理由は見当たらない。
おそらく地質や地形よりも標高差に因るのではなかろうか? 第1種第3級の自動車専用道路は設計速度が 60 km / h のはずだから、道路構造令にのっとる縦断勾配は原則として 5 %以下になる。伊豆市の滑沢渓谷あたりが標高約 500 m、河津町の河津七滝IC接続部が約 120 m なので、水平距離を取りつつ均一な勾配も保つということだろうか。もちろん湯ヶ島温泉と同様に梨本地区の泉源を避けるのも理由だろう。

一昨年に現地を訪れた記事「伊豆の温泉、火山地形、スコリア丘など」もどうぞ。