大正元年測図昭和14年修正5万図、参謀本部「船川」Stanford Digital Repository、干拓前の八郎潟。
現在では「男鹿半島」とされるが、この古い地図は「男鹿島」と記されている。
もともと国内では琵琶湖に次ぐ大きさだった八郎潟の干拓事業は1957(昭和32)年の着工。水深は最も深いところでも 4.5 m しかなかったとのことで、コメ増産のための干拓にはうってつけだったのだろう。国の事業としては1969(昭和44)年に完了。
この干拓事業についても土木学会のアーカイブがいくつか残っていて、南東部には特に軟弱な粘土地盤が分布しているとのこと、また1964(昭和39年)5月7日の男鹿沖地震(M 6.9)では西部承水路堤防に被害が集中したとされる。
『土木學會誌』第54巻第9号(1969(昭和44)年)に「八郎潟物語」(出口勝美)がある。
大きな一郡に相当する新しい国土ができたのであるから,その行政上の取扱いにはむずかしい問題があった......中央干拓地に独立新村・大潟村が誕生した。そのときの村民は,地区内の宿舎に住んでいた農林省職員と家族を合せてわずかに16人,それから5年後の現在では数百人になり,小・中学校もあれば,スーパーマーケットもでき,立派な地方自治体に生長しつつある。
八郎太郎は,男鹿島と本土とを2本のトンボロで結び,その間に湖をつくって住家とした竜神であって......大蛇になったり青年になったりするが,いまでも田沢湖の辰子姫と恋仲だそうである
後段の民話というか伝承というもの、個人的には好きである。
干陸までに、クジラの骨など出たらしい。ことし令和3年4月1日現在、人口は 3,054 人、世帯数は 1,096 世帯とのこと。
八郎潟干拓地に、北経40度と東緯140度の「 」が建っている。しかし
は400メートルほど南東となる。
北緯40度ライン上には、北京、ナポリ、マドリードやニューヨークなどの都市がある。
大潟村は、ほとんど海面より低いが、よく見ると東部承水路に沿って2~3 m の標高点もある。
ある右翼団体のボスと、帝国ホテルのレストランで会ったことがある。
その容姿は、艶のあるオールバックの髪型、金縁の細い眼鏡、完璧な和服、そして手指が何本か欠けていた。
まるで映画俳優のような迫力だった(ホンモノだから当然だが)。
ドスの効いた声で「おぅ、何かあったら、いつでも俺のところに来い......」と言ってくれた。
この人は私の伯父なのだが、会ったのはそれっきり。
米国在住の伯母とも、一度しか会ったことがない。
血縁だけど一期一会。そういうものだろう。