明治43年測図昭和12年修正5万分の1地形図「坂城」の一部を載せて見る。長野県上田市の近く、小県郡。
上田温泉電軌は現在の上田電鉄株式会社。青木線は1921年開業、1938年廃止なので、17年という短命。
松本街道(二線路)の注記があるが、これは当時の県道2号を意味するのだろう。青木線は専用軌道ではなく、現在は国道143号となっているこの「二線路」を借用して建設された軌道線とのことなので、その痕跡はいま微塵もない。上田原の先は宮島、福田、古吉町、小泉、白銀、出浦、当郷、殿戸、村松、青木の各駅があったようだ。
また依田窪線も記載されているが、こちらは1926年開業のち名称を「西丸子線」に変更、1963(昭和38)年廃止。
東急電鉄の始祖である五島慶太(1882~1959)が青木村の出身。旧姓は長野県でとても多い「小林」さん。農家の二男として生まれ、 が現存するとのこと。
また青木村には国宝の 、石仏で有名な
、
や
がある。牧歌的な佳き農村である。
なお修那羅峠は元々ひとつ西側の鞍部を指している。現在の県道12号は切り通しだが、かつては古い地図の通り、隧道だった。
という注記がある。千曲川の水害により被害を受けた荒れ地を、昭和6年に上田市が「市営飛行場」として開場、同8年に陸軍省に献納され軍用機の飛行訓練場となったらしい。
いろんな意味で支離滅裂の度が過ぎていたバブル期、大学1年の私は自動二輪中型免許を取るのに教習所に通うカネがなかったので「一発試験」を狙った。だが当時の運転免許試験場は篠ノ井だけ。松本から往復150km(聖高原越え)を原付で走ること8回目で免許を取った。寮の仲間のなかには、先に250ccのバイクを購入し、これを運転して自動二輪中型試験を受けに行くという前後不覚の猛者もいた。
また上田へ行く場合、貧乏ゆえ有料の三才山を避け国道143号を何度も走ったが、 が立ちはだかる。酷道というほどではないが、いかんせん道幅が狭い。明通トンネルと会吉トンネルは明治の1890年開通という、日露戦争より古いもの(バイパスの計画がある)。
なお青木峠の西は東筑摩郡の旧本城村、旧四賀村。地名から、みすず書房や筑摩書房といった出版社が信州由来であるという想像も易い。
山を越え谷を越え、とかく長野は広い。
こちらも参照:池田鉄道、篠ノ井線、長野の廃線、善白鉄道