幹川流路延長が 85 km、流域面積は 682 km² と長くも広くもないが、急流で水が豊富で存在感は大きい。鷲羽岳に源を発し、右岸の黒薙川が最大の支川。
雲ノ平は良いぞ......と若いころから何度も聞いているが、アプローチが長すぎて登ったことがない
が1956年の採水で泉温95度となっているなど、この流域の温泉はかなり高温。
黒部市の愛本が となっている。河道の幅は 40 m ほどしかない。鈴木隆介『建設技術者のための地形図読図入門』(古今書院)第3巻によると
黒部川でさえ側刻困難なほどの強抵抗性岩......
左右両岸に段丘面があるので元々の谷口はもっと上流にあり、この狭窄部は谷底から暴露したということらしい。Z軸方向でスケールの大きなハナシだと思う。
ここを扇頂として扇端までの距離は約 13.5 km とのこと、この扇状地に分水の線を引くのは意味がないと思うので端折る。
市立大町山岳博物館の機関誌『山と博物館』第13巻12号(1968年)に長沢武「北アルプス北部の山今昔(五)」があり、この中に
北アルプス最初の五万分の一地形図は大正二年「白馬」「黒部」「立山」が発行されたわけですが......白馬岳の名前は載っているものゝ実測まがいの幼稚なものでその他の山名や位置についてはほとんどあてにならないくらいのものでした......
殊に三俣蓮華周辺は、信州、飛騨、越中の三国境の地点で、山名も三者三様であり、最后迄結論が出なかった所で......
とある。長野、岐阜と富山の各々で山の呼称が異なっていて同定に苦慮したようだが、それほどに黒部は人跡の乏しい深山だったという証左なのだろう。宇奈月より上流は人の住む集落がないし、猟師くらいしか立ち入らないのだから、ごもっとも。
明治44年測図昭和5年修正(地上写真併用)陸地測量部5万図「黒部」Stanford Digital Repository から一部
この図中「四ッ家」とは、現在の白馬村中心部のこと。この時代の5万図、とくに山間部は描画が雑なのはしかたない。
第53巻11号(2008年)には菊池今朝和「大黒鉱山をめぐる人々」があって
大黒鉱山という名は、信州側からみて大黒岳の裏手の鉱山ということで名付けられたが、実質の位置関係は、餓鬼谷左岸から五竜岳に向って掘られている。
鉱山は地元の猟師によって明治三九年に発見された......
平川倉庫から沢を越え、二本松尾根を登り途中から雪渓に移り最後にガラ場を詰めると大黒岳の肩に出た。そこから尾根に入り、途中から沢伝いに下ると、事務所にでた。おおよそ一〇時間強の行程であった(『山岳』明治四三年版)。
......明治四二年、大黒鉱山は危機に見舞われる......一五名が越冬していた......体調を崩す人が続出し、二月も末になると殆どの越冬者が寝込んだ
死者6名という惨事だったようだ。
別の号では、白馬鑓温泉を細野集落へ引湯しようとして起きた雪崩による遭難事故の記載もある。
いまだに白馬岳周辺の信州と越中の県境は未定のまま。ザラ峠から針ノ木谷にかけては富山市と立山町の境界が、黒薙川流域では黒部市と朝日町の境界が未定のまま。いろんな歴史的経緯があるということだと思う(あるいは線引きが無理だったか)。
『山と博物館』には、黒四ダム建設前後のことも少々触れてある。言いにくそうな、奥歯に何か詰まったような記事もある。それも含めて、歴史や経緯を知っておくのは大事なのだろうとは思った。
なおこの流域に気象庁のアメダスは No. 55063 宇奈月しかない。雨量観測のみで上流域の天気は知る由もなし、ここの数値だけ見るわけにいかない。国交省北陸地整によると仙人谷では年間雨量が 4,000 mm を超え、また特に祖母谷、小黒部谷、不帰谷ではマサ状風化部で大崩壊地が形成されているとのこと。
西隣の常願寺川といい東隣の姫川といい、北アルプスはダイナミックですよね。
上記の分水界は 日本の主要な分水嶺分水界のマップ にも収納している。黒部渓谷の高熱隧道と小説 もあわせてどうぞ。
余談。リモート勤務の普及で20代から30代の若い人々が都会から地方へ移住する傾向があるのは良いことだと思う。受け入れる地方自治体は歓迎していることだろう。転出される側の自治体は、ふるさと納税で税収を失うのと同様に残念だろう。
言い換えれば、50代以上の中高年が子どもを伴わず移住してくるのは地方の自治体にとって近い将来の負荷が増すだけで本音は嬉しくないだろう。出ていかれる都会の自治体にとっては痛みがないだろう。
自治体の間で住民というパイを投げ合い移動を促す流れが某省庁から出てきて、姥捨山と化す地方の自治体が増える可能性もあるのではないかな? 私も老後は丹沢の麓か伊豆あたりで......などと思ったことはあったが、考えをあらためた。今後も横浜市のお世話になる。