野反ダム建設の歴史について

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公開日:2020-12-16 更新日:2021-07-14

『土木學會誌』昭和31年8月号に「野反ロックフィルダム工事の概要」(本間三郎・東電野反水力建設所長)がある。
東京電力が1953(昭和28)年1月~1956(同31)年に建設した。

ロックフィルダムが有利であるとされたおもなる理由は,本地点の基礎地盤が,コンクリート重力式ダムを築造するに適したほど強固でないにかかわらず,ロックフィル型式なら十分であること,なにぶんにも交通不便な遠隔地で,セメントその他の資材の輸送費がかさむため,なるべく現地で採集しうる石塊を利用することが有利であること,......耐震性が大きいこと,浸透水による揚圧力が働かないから安定性がある等

しかしながら、

現地には適当な心壁となる粘土がほとんどないために,内部遮水壁型ロックフィルダムとせず,表面コンクリートスラブ遮水壁をもつロックフィルダムとして設計された

参謀本部大正元年測図昭和6年要部修正測図「岩菅山」の一部。ダムができる前は六合村の「野反池」であり、水面標高が1,487mとなっている。

参謀本部大正元年測図昭和6年要部修正測図「岩菅山」の一部

野反ダムの地図

ダムの高さ44m、堤体積17万9000m³、有効水深25mとなっている。総予算は15億2000万円、有効貯水量は2840万m³。
北沢とハンノ木沢からも取水されるが、この導水路の総延長は2,029m、最大取水量は2.83m³/secとのこと(青色でトレースした)。
また堤頂標高は、国内では POI 南相木ダムの1,532mに次ぐ POI 1,517m(黒部第4より高所)。

八間山~弁天山の稜線が中央分水嶺なのだが、長野側に下った秋山郷最奥の POI 切明集落から遥かに遠いので、中津川水源である野反池は昔から群馬側の生業の圏内であった、ということだろう(分水界と自治体の境界が合致しないところには、必ず理由があると思う)。
また16kmに及ぶ輸送道路を群馬側県道末端から建設したとあるが、末端とは中之条町梨木付近(現在の国道405号)だろうか?

野反ダム断面図

興味深いのは、原石山を2度にわたり変更しており、またサイトの「基礎岩盤がところにより山深く逃げていて,予定以上の掘削となり,ダム中心線をひねる等のやむなきに至つた」と記されていること。

この種の調査が着工以前にいくら入念にされても入念すぎることがないということを痛感させられた

丹那トンネルもそうだが、戦前から戦後まもない時代は、事前に綿密な調査を充分にせずエイッと場当たり的に工事に突き進んで行ったふしがある。ダンプトラックも米国製のほうが優れていたという(ひるがえって技術の進歩とは凄いものだ)。

ロックフィルダムにおいて背面を整理することは,美観上はともかくとして構造上意味がないので,野反においては,最下部を法面保護の意味で多少整理したが,あとは自然投石面のままにした

「自然投石面のまま」はワイルドである。

野反ダムは計画最高水位とダム天端との間にかなりの余裕があり,ほとんど越流することが考えられないが,この種構造物が過去において,ほとんど越流のため致命的な破損をうけていることからも余水吐をつくることとし,その容量は620mm降雨量の際の洪水量46.2m³/secを流下しうるものとした。余水吐はダム右岸に幅8m,高さ4mの開キョとして設置したが,ゲート類は設けず,開キョ内に高さ1mの土畳を築き最高水位を保つようにした(※原文ママ)

なお施工は西松建設。
完成から64年、今なお冬季は営繕・養生が難儀だろうと思う。

出典=土木学会ダム一覧マップおよび土木遺産一覧マップも参照を。

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