富士五湖の西端となる本栖湖は、東岸が南都留郡富士河口湖町、西岸は南巨摩郡身延町。
一般には分水界が行政区域の境界と合致するところが多い。河口湖や西湖の北に連なる御坂山地は、そうなっている。
本栖湖周辺も、パノラマ台から佛峠を経て雨ヶ岳の稜線が境界であっても良さそうなものだが、そうはなっていない。
参謀本部の昭和3年測図2万5千分の1地形図「精進」では、都留の上九一色村と西八代の古關村の境界が、現在と同じく湖上は未定。
(※陸地測量部の明治21年測図昭和3年修正測図5万分の1地形図「富士山」では、なぜか湖上に直線で境界線が引かれている)
本栖湖の西岸は、もともと身延側(旧古關村)の人々の生活圏で、湖の魚を獲っていたのではないだろうか?「方外院の鐘」という民話も残っているくらい、所縁(ゆかり)が古いということだろう。
憶測になるが、近くの毛無山西面に甲斐金山(中山、内山、茅小屋)が存在していたことも無関係ではないのかもしれない。また東岸には本栖集落があるが、ここは関所と宿場町として繁栄の歴史を刻んできたらしいので、農水産への執着は薄かったのかもしれない。
富士五湖の水を水力発電に利用しようとする試みは戦前からあったらしい*。
本栖湖の水を富士川に落とし、アルミニウム増産のため日本軽金属の発電に利用しようとした。
ただし、本栖湖が精進湖・西湖と地下でつながっていると考えられており、本栖湖の水を富士川水系に流出させると他の2湖も水位低下をきたすとして、西湖の水を利して発電し(ようとし)ていた東京電燈(のちの東京電力)が反対した。
戦争で計画はいったん頓挫したものの、日本軽金属の計画が再び動く。
1950(昭和25)年11月1日、建設省に認可された本栖湖の試験的な取水工事が再開されたが、地元住民が取水工事計画に反対、地元町村は反対陳情書を県知事に提出し計画の中止を訴えたため、12月の山梨県議会では直ちに承認されなかった。
しかし県議会は翌51年3月、工事再開を承認。5月に県は試験的取水工事に着手、52年2月に約3kmの導水路が完成した。
導水路の竣工に際し山梨県は水位調査のため「本栖湖水理調査協議会」を設置、53年9月に結論を出した。
結論は,3湖の直接的連絡を否定し,本栖湖取水が他の2湖に大きな影響はないとし,取水を容認するものであった。
日本軽金属は,このお墨付きをえて,1953年12月に山梨県に本栖湖の発電用の水利権を出願した。日本軽金属の水利権出願にたいして,東京電力は「西湖の水利権に関連して,既に与えられた本栖・精進・西湖の3湖を利用する水利許可に触れるという」ことで「反対」した
結局、山梨県は54年9月に本栖湖発電所建設を許可、同年11月に日本軽金属に条件を付して本栖湖の水利権を許可したという。
日本軽金属の は1955(昭和30)年12月21日に建設が開始され、57年1月18日に完成。
実際のところ、導水路工事が本栖湖と周辺に影響を与えたというような話は聞いたことがない。「第6の湖」 が出現しなくなったのは取水のせい、という話もあるらしいが、日常から姿を消した理由だとするには根拠が苦しいように思う。そもそも1919(大正8)年に西湖の水は導水路で河口湖に流れ、東京電力が
を運用している。【こちらも参照:山梨県富士吉田の地形など】
なお南部町の と、サクラエビとの関連で騒がれている早川町の
も、日本軽金属のもの。
行政手続などの上では、市町村の境界が明確に定義されているほうが明らかに便利だ。
だが、水利権や漁業権といった生活に根差した権利が絡むと、ことは複雑で厄介になる。
「あえて線を引かない」こともまた智恵である、というところが(富士山頂などなど)たくさんある。
*参考文献=「富士箱根国立公園内の戦後の観光開発計画と反対運動―戦後後期の国立公園制度の整備・拡充(10)―」(村串仁三郎)
この論文では1951年の富士登山鉄道計画などについても記述されている。