厚木市を流れる玉川は、もともと花水川の支流で南へ流れていた。それが東へ付け替えられ相模川の支流になったとのこと。
次のマップのうち古地図は明治42 (1909) 年測図昭和20年部分修正内務省地理調査所5万図「藤澤」MapWarper から
1941年7月の洪水を契機として1946 (昭和21) 年4月ころに流路の付け替え工事は完了したそうだ (厚木市史たより第32号)。
玉川河川改修記念碑の裏面に説明 (8名の水難犠牲者) があった。この碑は七沢石 (丹沢層群大沢層の火山礫凝灰岩) だろうか?

古地図には旧玉川が描かれており、その中流域の旧河道は伊勢原市の東端の境界線に合致する。自治体の境界線には由来があるという典型だと思う (山間部では分水界、平野部では河道が境界となるケースが多い)。
DEM1Eをまじまじ読むと、旧河道の凹凸が今なおトレースできる部分が残っている。次は河道だったところに建つ花崗岩の碑

小町神社が建つ丘の裾にある。次の写真の道路が旧河道

玉川右支の日向川でも1938 (昭和13) 年の台風で山津波が発生、甚大な被害があったとのこと (伊勢原市)。
七沢川と日向川が合流して玉川となるが、その合流箇所付近を伊勢原断層 (東側が西側に対して相対的に隆起する逆断層) が南北に縦貫する (温泉地学研究所)。次の写真がその合流点 (カモが二羽で飛んでいる)、右の七沢川に架かるのは西門橋という名だった

河床の階段状の落差工と魚道が美しい。1923 (大正12) 年9月1日の関東地震で荒廃した丹沢山地から相当量の土砂供給があったようだ。
肝要なのは、沖積地や谷底平野の河川は自由に流路を変えるということだと思う。100年前と200年前の玉川河道はきっと異なるだろう。
(すると旧玉川と恩曽川の分水の壁はどこにあったのだろう?)
玉川小学校の前に架かる奨学橋から合流点を撮ったが

この地域の、教育にかける熱意を感じないではいられない。
なおマップ中に厚木秦野道路 (一部が事業中) も描画した (国土数値情報の都市計画決定情報データから厚木市と伊勢原市)。
今回は元湯玉川館ではなく広沢寺玉翠楼でもなく、大正12年関東地震のとき湧き出したという「かぶと湯温泉 山水楼」におじゃました

脱衣所に掲示されたデータによると泉温 17.6°C、pH は 10.0 (2024.5.15) となっていた。温地研によると七沢温泉は「ナトリウムイオン、硫酸イオン、メタホウ酸が多く、マグネシウムイオン、カルシウムイオン、硝酸イオンが少ない特徴がある」とされる高アルカリ性。
とにかくヌルヌルした湯で、私のガサガサした乾燥肌がサラリとした。所在地は厚木市七沢2062、山水楼HP
河川の流路も変わるが水質も時代とともに変わるものだろう。自然というのは、常に安定し固定しているものではないと思う。人間が人工的に平定させることができると考えたら、それは思い上がりだろうとも思う。
山水楼の館内に、案の定というか当然というのか、FMヨコハマのリポーター藤田優一さんのサイン入りステッカーが何枚か貼ってあった。神奈川あるある。