明治43年測図昭和12年修正内務省5万図「坂城」MapWarper から。
青木峠の周辺、バイパス事業はじわじわ進んでいるもよう。東条ダム北側の地すべり地形をトンネルで通過するようだ
松本街道 (二線路) の注記は、明治期に長野県が施策とした七道開削事業の第二路線。なお第一は碓氷峠、第三は飯山、第四は飯田~根羽、第五は糸魚川街道、第六は木曽谷、第七は甲州街道。
明通トンネルは明治23 (1890) 年3月開通、現役の国道トンネルでは国内最古。青木峠はここを指しており、千曲川水系支川の弘法川と犀川水系支川の東条川の分水界にある。
会吉トンネルも同年の開通、犀川水系支川の東条川と会田川の分水界にある。こちらは峠として特段の名もない。二線路建設にあたり松本街道の古道である地蔵峠を選ばなかったのは何らかの理由があったのだろう (なお地蔵峠は全国に40ほどあり、長野県だけでも9つある)。二線路が開鑿される前は保福寺峠を往来していたはずだ (標高 1,345 m ほど、ウォルター・ウェストンが明治24年に通過している)。
青木峠は松本 (中信) と上田 (東信) という異なる文化圏の境界でもあるが、上田市内まで行くと上州の空気感がある。東急の五島慶太は青木村の出身だが、越境して長野県尋常中学校松本本校 (現在の松本深志高) を卒業している。二線路を幾度も往復したのだろう。
今は松本市に編入されているが会吉側の旧四賀村は長閑な佳き山村。道祖神や石仏が多い。
筑北村は坂井村と本城村と坂北村が合併して2005年発足。旧坂井村は地形的に孤立、昭和42年5月5日の冠着山付近を震源とする地震で湯戸では川の中から温泉が湧出したそうだ。さらに坂井村の前身は安坂村と永井村だが「境ナシ」の小字はその境界未定ということだろうか?
麻績村 (おみむら) の名は、平安時代に伊勢神宮の御領地として麻を績いでいたことに由来するようだ。現在この村の大字は「麻 (お)」と「日 (ひ)」に大別される。旧日向村の日か?
昔の信州大学は松本市に教養部があった。繊維学部生は2年になると上田市へ引っ越す。もう40年も前のハナシだが、松本と上田の往来は三才山 (1976 (昭和51) 年開通) が有料だったので貧乏な信大生は青木峠を越えていた。国道143号の青木峠区間は (明治時代から水準点も含め) ほとんど変わっていないというのが驚異でもある。五輪に無縁の地域だったしリニアにも無縁なので取り残され今に至ったのだろう。
このエリアは1959 (昭和34) 年8月14日の台風、2010 (平成22) 年7月2日の集中豪雨などで土砂災害が起きている。東条川の上流部など危険な地形に見える。この点でもバイパスは有益だと思う。
ついでに昨日4月18日、このエリアの北西で揺れた。気象庁による震央を地図にプロットしておいた。
「青木村の廃止された鉄道」も参照を。まえでにあるずらぁ、へぇ?
参考: 国土交通省、冊子「オランダ人デ・レイケがみた信州の河川・道路」の概要、「長野県東筑摩郡坂井村草湯における涌水の変化と地震活動」(PDF、防災科学技術研究所ライブラリー)
近隣にある姨捨山 (おばすてやま) は、姥 (うば) 捨て伝説の地だと言われる。深沢七郎は小説『楢山節考』の舞台を信州としているけれど、情景は山梨県の境川村大黒坂だと明言している。
丹波や遠野にも棄老伝説はある。水上勉は若狭の子捨てについて書いていたように覚えている。いずれも伝説の域を出ない。
豊かになったはずの現在でも、かたちを変えて、多くの老人や子どもが見捨てられているかもしれない。憶測の域を出ないが。