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雨畑、身延周辺の地図を読む

公開日: 2025年1月24日

明治43年測図昭和3年修正地理調査所5万図「身延」MapWarper から、山梨県身延町および早川町のエリア。フォッサマグナ西縁の糸魚川静岡構造線が南北に縦断し地質は脆弱、3つのプレートの境界部付近で変動も激しいのだろう

雨畑ダムは1967年竣工、日本軽金属が所有する発電専用のダムで薄い構造のアーチ式らしい。堆砂率は 90 % を超えているとのことで、もはや巨大な砂防堰堤のようになっている。集水域を俯瞰すれば大規模なものから小規模なものまで崩壊地が多数あり、河床上昇も当然の帰結だろうか。1982年8月には台風10号により稲又谷は最高約20メートル河床が上昇し砂防ダムふたつが埋まったとある (「大規模な土砂流出事例とその後の変化」水山・森山、第30回水理講演会論文集、1986年2月、土木学会)。

このダムのほか今昔の大きな相違は国道52号と中部横断自動車道くらいか。
雨畑川の合流点より上の早川幹川には田代川発電所や早川発電所などが古くからあるが、現在は東京電力と山梨県企業局の所有のようだ。
五開村の山王や大草里、富里村の桃ヶ窪や醍醐といった集落は廃村で無住のもよう。

早川の左岸、塩之上の凹地から笹走の鞍部にかけて、まったりしたヘンな地形になっている。単に地すべりだけでもないような? 富士見山の東麓にある逆断層とは関係ないのだろうか?

この早川身延地域は、釜無川右岸と同様どちらかといえば水防よりも砂防がタイヘンだろうと思う。
山梨県で最大規模の水害は明治40 (1907) 年の大水害のようだが、その後もたびたび災害は発生している。
1958年7月には身延線の第1湯川橋梁が台風により橋桁を流失、2011年9月にも台風により内船~甲斐大島駅間で盛土が崩壊するなど身延線は95カ所が被災。他にもいろいろ。

早川町に夏秋 (ナツヤケあるいはナツアケ) という集落がある。北杜市長坂町にも夏秋があるが読みはナツアキらしい。浜松市天竜区の佐久間ダム左岸には夏焼集落がある。夏秋も夏焼も東北から中国四国まで散在するが、名の由来は近いのだろう。
草里の地名も散見されるが、早川町役場ホームページ によると町内に30例近くあるらしい。
垈 (ヌタ) は山梨県内に10例近くある。

下部町誌』によると早川町の保、黒桂や雨畑など、下部町の湯之奥、川尻などに金山があったとのこと (p.169)。今川氏や武田氏の時代。

甲斐常葉駅の北東、身延町の栃代川右岸に所在する大炊平という集落には「禁酒の碑」があるらしい。大正時代までは飲む打つ買うの悪習があり田畑を売って酒代にかえる者が多かったとのこと (下部町誌 p.608)。今なお ストリートビューに写っている が「内外に公示し、自律的にも他律的にも誓いの実践を約して今日に至っている」とあり、文言は禁酒興国。いろんな石碑があるものだなぁ。

大学生のとき松本から西伊豆の戸田までバイクで日帰りソロツーリングをして国道52号も往復したはずなのだが、このエリアのことは何ひとつ憶えていない。先を急いで飛ばす旅はいろんなものを見落とすので、やっぱり良くない。
登山にしても「ピークを踏むこと」を目的としてしまい、そのプロセスをほいほい飛ばしていた。若気の至りとしかいいようがない。

富士川流域の分水界をできるだけ描いてみる」も参照を。

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石について。

雨畑といえば国内最高級の硯 (すずり) が有名だが、原石となるのは稲又地区で切り出される粘板岩らしい。

切れ味のわるい庖丁は Quality of life を下げる (食材の切目がキレイにならないし、ムダなちからが入ってケガするリスクも高くなる)。
なので出刃、柳刃、牛刀やぺティナイフなどを砥石でときどき研ぐ

赤砥

この築地正本の中砥を17年ほど使っているが、残念ながら天然石ではない。今どき家庭で砥石は使われないかなぁ?
(ちなみに左利き用の和庖丁は右利き用の五割増しくらい高価になる)

三角点の柱石は、ほとんどが小豆島産の花崗岩とされる。
間ノ岳の山頂を ストリートビューで見てみたら 三角点の柱石に賽銭が供えられている。ありがたそうな石に見えたのかもしれないけど、それってクラウドファ ()