もともと大岡川が注ぐ入り江だったところを、江戸時代に吉田勘兵衛が中心となって埋め立てたのが吉田新田。工事は1656年に始まり、1667年に竣工した。その完成後も入り江だった現在の横浜中華街あたりは「横浜新田」として、現在の横浜スタジアム周辺は「太田屋新田」として埋め立てられ陸地となった。
次の画像は国立国会図書館デジタルコレクション 『日本地理風俗大系』III, 新光社, 昭和5. の126ページから。嘉永7年は1854年
さらに127ページから、文久三年 (1863年) の図
工事を正確に記録した図面などあるはずもないが、ざっくりと埋立地を地図に示してみた。
吉田新田は農地としての埋立て、明治前半ころの市街地としての埋立ての中心が太田屋新田とのこと。
大岡川の河口だった重要な地点に、吉田勘兵衛が勧請したといわれる (お三の宮) がある。1673年の創建らしい。
吉田新田から太田屋新田の西端に架けられた太田橋がのちに となる。ここに関所があり「関内」と「関外」の境とされた。
国土地理院の「自分で作る色別標高図」で精細に色づけすると、横浜地方気象台のある海食崖の山手地区から西北西に延びていた砂洲の旧横濱村が浮き上がる。地下に敷設された鉄道みなとみらい線のルート選定は、理にかなっている。
埋立地の中央を横断している市営地下鉄の設計は大胆に思えるが、かなりの深度なのだろうか?
短時間の集中豪雨があると横浜スタジアムのベンチが水没することがある。もともと入り江だったのだから、それも道理か。
砂洲の先端が象ヶ鼻、YOKOHAMA AIR CABIN 乗り場のあたり。現在の象の鼻パークや防波堤は関係ない。
姥ヶ岩という岩礁があったというのは、おそらく桜木町駅の西側、市立本町小学校付近ではないか?
平沼から保土ヶ谷にかけては帷子川の、太田から弘明寺にかけては大岡川の沖積した低地であり、地盤は強くなく関東大震災で壊滅的な被害を受けた一因だろうと思う。現代の建造物は、地下そうとう深く基礎が打ち込まれ安全を担保しているのだろう。
現在この界隈を歩いたり運転したりしても、低地であることを感知し認識することはむずかしい。
娘氏や息子氏は小学生のとき吉田新田について教わっていた。生粋の「ハマっこ」にとっては基礎知識なのだろうが、私のように他所から移り住んだ者は、こうした知識に欠けてしまう (横浜市歌も歌えない)。代々の地主さんが最も博識だろうと思う。
参考=有隣堂情報紙「有鄰」468号、一般財団法人地図情報センター「地図情報 DIGITAL 29-1」2009