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明治末期の上高地の地図

公開日: 2023年6月9日

焼岳が噴火して梓川を堰き止め大正池を形成したのは1915 (大正4) 年6月、1943 (昭和18) 年には釜ヶ渕堰堤も竣工し土砂を堆積させているので、現行の地形図で上高地の谷底平野は幅広であるかのように見えてしまう

国土地理院いわく

噴火の前、明治期の上高地の地形はどんなふうだったのだろう? という疑問がずっとあった。九段の関東地方測量部で旧版地図の謄本を受け取れば済むことだが、億劫だし別にそこまで……という感じで入手しなかった。
国立国会図書館デジタルコレクションに、朝枝利男著『徒歩者の為めの趣味の登山』東京啓発舎事務局 (大正12) があった。趣味の登山と言いつつ火山を主に地形地質までおそろしくディープな本だが、その p.444 と p.445 の間 (ノンブルがふられていない) に明治期の5万図らしきが挿入されていた。たぶん1912 (明治45) 年測図「燒嶽」の一部

徒歩者の為めの趣味の登山から

つぶれて見づらいが田代池が記載されている。それより下流はディープに下刻された谷だったようで、右岸の焼岳の裾に小径が記載されている。中の湯まで連続性のある険しいV字谷だったのかな? 田代池のあたりで沖積錐が終わるのもなぜなんだ。梓川が飛騨へ流れていた太古は谷底平野などなかっただろうし、古い堰止湖の (以下妄想省略)

田代池の中にある小さな浮島は之れ皆火山噴出物であるを以てすれば、昔此邊一帯に硫黄岳から流下した泥流が堆積して田代池を作つたものと思われる

なお焼嶽と硫黄嶽の使い分けは本文によると飛騨側の概念のようだ。描画が正確だったかどうかも疑わないといけない。
地形の成り立ちを想像するのは (陳腐で古くさい言い方だが) ロマンがあると思う。

大正池は少しずつ土砂に埋もれているが、発電所の上部調整池としての機能を果たしているうちは問題ないのだろうと個人的には思う。
焼岳山頂が登山禁止だった昭和の末期、五千尺の横からガレの中畠沢を詰めて六百山の尾根に出ると焼岳の山体と沖積錐を俯瞰できた。
河童橋の少し上流で泳いだこともあったが、水流が意外に速かったことは覚えている (いま泳いだらきっと叱られます)

余談。ガルシア=マルケス (Gabriel García Márquez)『百年の孤独』新潮社、初版48刷。

百年の孤独

原題 Cien Años de Soledad、訳者は鼓直氏、編集は塙陽子氏。

異状がないということ。何も起こらないということ。これが、この際限のない戦いのもっとも恐ろしい点だった。予感にも見放された孤独な彼は、死ぬまでつきまとわれそうな悪寒から逃れるために、マコンドに、さまざまな遠い思い出のなかに、最後の隠れ家を求めたのだった。(p.131)
Y la normalidad era precisamente lo más espantoso de aquella guerra infinita: que no pasaba nada. Solo, abandonado por los presagios, huyendo del frío que había de acompañarlo hasta la muerte, buscó un último refugio en Macondo, al calor de sus recuerdos más antiguos. (Edición: 1999, Plaza & Janés, p.204)

27年前に買った上製本 (当時は消費税率が3%だったので税込2,000円だったはず) だが、スペイン語版もあわせ何度読んでも混乱をきたす。
La lluvia que estremecia a Macondo duro cuatro años, once meses y dos días.
こんな想像力が欲しい。現実に降り続いたらイヤだが。