さきに日本全国の温泉記号およそ3,840ヶ所を抽出した(地形図の温泉記号一覧マップ)が、その中には「なぜソコに?」というものが少なからずあった。
八ヶ岳の火山岩屑流原である丘陵に温泉などあるはずない、という思い込みで見落としていた。
その東西の平地とは 100 m ほどの比高がある。穴山温泉能見荘は大正元年の開湯で、深田久弥ゆかりの宿とのこと。
ボーリング(Boring)の古典的手法である「上総掘り」は明治初期に考案されたらしいが、大分の別府では明治12(1879)年頃にこの技術が導入され、掘削が盛んとなり温泉地として発展した。明治44(1911)年には、自然湧出泉が17ヶ所であったのに対し、掘削泉は76ヶ所となった*。
上総掘りでは 360~540 m も掘ることができたらしいので、韮崎のこの温泉も、おそらく同じ技術に拠ったのではなかろうか?
大多数の温泉は川や沢の筋にある。尾根や扇央には普通ないが、ここは筑波山の裾。
筑波温泉ホテルによると、昭和49(1974)年に「深度 1,353 m から筑波山で最初の湯脈を発見し」たとのこと。道理で。
河道の真ん中にある。1860年に温泉が自然噴出したとされ、その場所から今もコンコンと湧き出ているとのこと(ストリートビューで見ると、確かに櫓のようなものが見える)。支川合流点の直下、下刻の賜物なのだろうか? 那珂川はたびたび洪水を起こしているのに、泉源とはタフなものだ。
火山の近くに温泉があるのはザラだけれども、出どころがおもしろい。三原山のキラウエア型カルデラは北東へ低くなる緩傾斜、その(外?)縁にあたる高所にある。
大島温泉ホテルによると「地下約 300 m から69℃以上の温泉を汲み上げており」となっているが、カルデラ内に浸透した水の出口なのだろうか?
近くの「海の森3丁目」に、センサーの標高がマイナス 2,994 m という深い地下の地震観測点「江東」があるのだが、そのくらい掘る技術があれば東京湾でも湯は出るということか。大深度で水脈に当たれば、それが冷水であるわけないが。
西から東への地すべり地形に温泉がある。ここは明治期の地図にすでに礦泉記号が付されているが、当時の八坂村でわざわざ上総掘りにより「湯突き」したとは想像しにくい。
ありていに考えたら地すべりの堆積物に埋もれ温泉は出ない気がするが、きっとそんな安直単純なものではなく、実は滑落崖かもしれないし、わずかの下刻・側刻や崩壊でも湯が湧く場合があるのだろう。地すべり自体も相当に古いものなのかもしれない。
たかが温泉されど温泉、私は地質や地学について素人だが、記号の由来を読んで想像し推定するのは、おもしろい(もちろん間違えているおそれはあるのだが)。
なお、ここ1カ月ほどの間に全国で少なくとも3ヶ所の温泉記号が地理院地図から削除されたことを確認している。廃湯でも記載が継続されているものがたくさんある。今後さらに廃湯・廃業は増えるだろう。
時間軸の変化は、埼玉大学・谷謙二教授の今昔マップで比較するのが判りやすい。
高校生のとき、ボーリングのアルバイトで、大分の高速道建設予定地と玄海島に行ったことがある。マシンではなく、ヤグラを組んで滑車を介して人力で打撃し、取り出したそのコアを地質調査のための柱状サンプルとするアナログなものだった。今になって思えば、有為の経験をさせてもらったと思う。
なお、ボウリング(Bowling)では200点を超えたことがない(どうでもいい)。
*『文化的景観 別府の湯けむり景観保存計画』第5章「温泉・湯けむりの民俗学的概要」別府市、段上達雄(⇒External Link)