昭和初期の三宅島の地形図
公開: 2017年08月31日, 更新: 2023年04月11日 by ちずぞう
旧陸地測量部の5万分の1地形図「三宅島西部」と「三宅島東部」(大正元年、昭和10年修正)を各々一部載せる(Stanford Digital Repository より)。
この古い地図のあと、三宅島では次のとおり噴火した(気象庁による)。
- 1940(昭和15)年7月12日 雄山北東山腹の標高200m付近より噴火。ひょうたん山の形成、赤場暁、ヨリダイ沢溶岩の流下
- 1962(昭和37)年8月24日 雄山山頂と赤場暁を結ぶ山腹で噴火。噴石丘「三七山」が生成
- 1983(昭和58)年10月3日 雄山南西山腹二男山付近より噴火が始まり割れ目火口となった。溶岩流は粟辺地区の海中に達し、阿古地区の400棟を超える住家を埋没・焼き尽くした。また新澪池付近とその南の新鼻海岸付近でマグマ水蒸気爆発が発生
- 2000(平成12)年6月~ 群発地震に始まり雄山山頂付近に直径1.5km、深さ450mのカルデラが形成。断続的に噴火が観測
現行の地形図で最高地点は775mの標高点だが、古い地図では814.5mの三角点「伊豆」があることを確認できる(しかし最高点は別だったようだ)。
標高点462の位置が、旧三角点「二男山」だろうか。
島の輪郭であからさまに異なっているのは、赤場暁。
2000年の噴火後、南風に乗ったのだろう、横浜でも度々硫黄の匂いがしていた。最近は、まったくない。
とうぶんの間は小康してもらいたいものだ。