利根川の支川のなかでも鬼怒川は大物だが、歴史的にもいろいろあるようだ。平時は次のように澄まして穏やかだけれど
「天和三年 (1683) 天和日光地震に伴う天然ダム (五十里湖) 形成と,享保八年 (1723) の決壊 (五十里洪水) について」 (PDF、砂防学会、2023) によると
天和三年(1683)の天和日光地震において,栃木県日光市の葛老山(かつろうやま:別名「戸板山」)が崩壊し,鬼怒川支川男鹿川を堰き止め,五十里湖(いかりこ)と呼ばれる天然ダム湖が形成された。天然ダム上流沿岸の集落は湛水による移転を強いられ,以降 40 年間天然ダムは決壊しなかったが,享保八年(1723)に豪雨が続き,天然ダムは決壊した
昔から坂東太郎が暴れていたのは周知のことだが、これは下流に甚大な被害を与えたとのこと。
堰止湖の水面は現在の五十里ダム湖より高かったようだ。
大正元年測図昭和8 (1933) 年要部修正測図陸地測量部5万図「川治」Stanford Digital Repository から
「恐るべきダムの崩壊 ―五十里洪水の例―」(PDF、水利科学5巻6号、荒川、1962) によれば、堰止湖が決壊した奔流が洗い掘りして現れたのが川治温泉なのだそうだ。男鹿川が左に転回する攻撃部、産総研の 地熱情報データベース で見ると泉温 45.5 °C、pH 7.8 となっている。なお日本鉱泉誌 (1886) には「(華氏) 百十三度 鬼奴川水漲ノ時ハ温度ヲ加フ」とある。
戦前、1931 (昭和6) 年の『工事画報』第7巻第8号に「鬼怒川の洪水流下量を調節する大堰堤工事」(PDF) という記事があり
本川の改修は大正五年度より其調査に着手し、従来の河川改修工事と大に其面目を異にした計画が立てられるに至った...
其流量を低減する爲、男鹿川海跡の河袋に一大貯水池、容量約 5,500 立方米を築設し...
ということで五十里ダムの建設が図られたということだが、後世になって「社会背景から見た近代日本における重力ダムの変遷」(PDF、『土木史研究講演集』Vol.24、樋口・馬場、2004) の評価は
内務省が計画した五十里ダムは、洪水調節を目的としたダムであった...
掘削開始後、大断層に出くわし、「到底その安全を期し難く堰堤位置としては全く不適当なり」との判断が下され、1933年に破棄された。内務省のメンツが失われたばかりでなく、地盤調査の重要性が認識されるきっかけともなった
知見に乏しかった時代とはいえ大本営の失敗例。
戦後ようやく着手して当時の建設省の人は「五十里ダムについて」(PDF、土木学会第8回年次学術講演会概要、1952) の中で
五十里ダムはその計画の当初地点を上流関内に定め調査に着手したのであるが不慮の断層群に遭遇し,今回の着工に際し地点を旧ダム地点から溪流に沿い約 2.5 km の下流に変更したものである
結果的に利根川の治水と利水に大きく寄与して住民の生命や財産を守っているけれども、いつの時代も省庁のメンツに由来する言い回しがある。現代でもマイナンバーカードなどが「不慮の障害に遭遇」しかねない (している)
会津西街道は現在の国道121号、日光川治防災というバイパスが事業中。 関東地方整備局 宇都宮国道事務所 によると、五十里ダムと川治ダムの間に建設するらしい。昔の大崩壊による崖錐堆積物の下にトンネルを通すようで、ざっくりトレースしてみた
地図を読むと北側坑口が標高およそ 600 m あまり、南側坑口が標高およそ 520 m ほど。縦断勾配は 2.7 % 程度だろうか。
川治ダムの常時満水位は 616 m、五十里ダムは 586 m なので、新設2号トンネルのほうが低い。
次は 栃木県のHP から
野岩鉄道の葛老山トンネル (1986年開業) の施工実績が下敷きとなっているのだろう。その約 13 m 上で交差し、導水トンネルとも約 11 m 下で交差するようだ。北から突っ込み施工して切羽を水溜まりにはしないだろうから、南坑口から NATM で掘削するのかしら?
鬼怒川に架ける橋梁は長さ約 300 m のトラス桁みたい。
ところで最近は「命の水を守る」などという言い回しを見聞きするが、私は少しイヤな印象を受ける。
もちろん水には命を育む天使の顔があるが、ときに容赦なく命を奪う悪魔の顔もある。
情緒的な修辞など要らないと思う。水は水。