地図蔵 ▷ 2012年までの記事「演技(2)」

演技(2)

(2005年12月11日)
「嫌いなものは殺してしまう、それが人間のすることか?」
「憎けりゃ殺す、それが人間ってもんじゃないのかね?」
(シェイクスピア『ヴェニスの商人』)

しかし現代は、嫌いでなくても人を殺すし、憎まれてもいないのに殺される。そんな凶悪犯罪ばかり。昨今起きた広島、栃木、京都の3件の殺人事件は、あまりにむごすぎる。

「人間は、日々の暮らしの中で、本性とは別のところで、社会性なり倫理性に則って、人物・人格を演じ続けている、人生というものは、その大部分が演技であるような気がする」と、2003年の4月に私は書きました。

道徳性や社会性などというものは、いついかなるときでもそれを「演じきる」、そういう人物に「なりきる」という継続と、その深度に他ならないだろうという意味で書きました。そして、倫理・道徳なり社会通念を何時如何なるときでも徹底透徹できるか否か、外道な欲望や凶悪さを飼い馴らせるか否かが、正気と狂気の敷居ではないでしょうか?
人格を演技しきれなくなった人が唐突に危うさや脆さを見せることは、しばしばあることです。その人格の「格」にも、貴賎や上品下品など程度の相違があることでしょう。


まさかあの人が犯罪を? 普段はおとなしい、真面目ないい人なのに・・・というケースが多いのは、狼が皮をかぶって羊を演じているに過ぎない、または、狂人があたかも善人であるかのように人物・人格を演じ続けていただけのことと思うのです。あるいは、何かの拍子に演技しきれなくなったのだと思うのです。

加えて昨今の殺人者は、望んで殺人者を演じているふしがあるように思われてなりません。人物の深淵に(誰にでも)ある本性の歪んだ部分をフィクションとして完成させるため、憎くも嫌いでもないのに犯行に及んだ、そんなふうに思われてなりません。

人間は、殺意を抱いた時点で(責任能力とか心神喪失などというより)すでに狂人であろうと思います。そして前述の事件の最後は、極刑によって完結されることもやむなし、とも思うのです。