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アウグスト・ピノチェト

(2005年9月11日)

※智利日報から再録。アウグスト・ピノチェト(Augusto Pinochet 1915-2006)と、サルバドール・アジェンデ(Salvador Allende 1908-1973)、ふたりの元チリ大統領についてのまとめ。

※追記:2006年12月10日、ピノチェト(91)死去。

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二人の経歴
サルバドール・アジェンデ・ゴセンス(Salvador Allende Gossens)は、1908年6月26日バルパライソに生まれた。
25年に兵役を終了、26年にチリ大学医学部に学び、27年にマルキシズムの研究グループを結成、社会主義運動に傾倒。32年に卒業、しかし医学以上に政治運動に邁進。42年には社会党の書記長となる。45年に上院議員、54年上院副議長、58年に大統領選挙に出馬(ホルヘ・アレッサンドリに敗れる)、59年にはハバナを訪れ、フィデル・カストロ、チェ・ゲバラと会談。
64年の大統領選挙で今度はエドゥアルド・フレイ・モンタルバに敗れる。67年ソビエト連邦訪問、68年北朝鮮やヴィエトナムを訪問、69年人民連合(Unidad Popular)結成、70年9月4日の選挙で勝利。
アウグスト・ピノチェト・ウガルテ(Augusto Pinochet Ugarte)は、1915年11月25日バルパライソに生まれた。
33年から4年間、士官学校(Escuela Militar)に学び、37年歩兵隊少尉、41年中尉と昇進、43年1月にはルシア・ロドリゲスと結婚。51年には教官としてして士官学校に戻り、53年に参謀。チリ大学法学部(Escuela de Derecho de la Universidad de Chile)でも学ぶ。エクアドルの軍事教育機関で3年半教官を務め、59年末にチリへ戻る。69年には第1州(タラパカ州、Tarapaca)の州知事代理を務める。
その後71年に将官としてサンティアゴの守備隊長、72年に陸軍大将、73年8月24日に陸軍総司令官の地位に就く。
ここまでは典型的な職業軍人。

ピノチェトとアジェンデ
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アジェンデ政権(人民連合)の3年間の主な出来事は以下。

1970年 9月4日、大統領選挙でアジェンデ第1位
10月22日、レネ・シュナイダー(Rene Schneider)陸軍総司令官暗殺
10月24日、上下両院合同会議でアジェンデ大統領任命
11月18日、キューバと国交正常化
12月14日、米国企業・太平洋製鋼を接収
12月21日、大銅山の国有化法案が国会に上程
1971年 1月8日、在チリ米軍地位協定の期限終了に伴い米軍基地撤去
1月11日、銀行の国有化開始
5月28日、フォードのチリ工場を接収
5月29日、硝石産業の国有化開始
7月11日、議会、大銅山会社国有化のための憲法改正案承認
8月12日、米国、3億1000万ドルの対チリ借款打ち切り
9月23日、ITTのチリ子会社接収
11月10日、キューバのF・カストロがチリ訪問(25日間滞在)、ピノチェトが軍の「儀じょう」を指揮
1972年 1月1日、ゼネラル・モーターのチリ工場を接収
3月3日、アジェンデ暗殺計画発覚
3月25日、マーシャル少佐のクーデター計画発覚
11月2日、軍民内閣成立、カルロス・プラッツ陸軍大将が内務大臣就任
12月4日、アジェンデが国連本会議で米国の過干渉を非難
1973年 3月28日、内閣改造
4月19日、エル・テニエンテ銅山ストライキ、銅輸出が実質停止
5月11日、チュキカマタ銅山ストライキ
5月25日、軍右派、6月27日にクーデター敢行を決定、以後ストやテロなど反政府攻勢が活発化
6月15日、エル・テニエンテ銅山労働者がサンティアゴでデモ
6月27日、プラッツ将軍暗殺未遂事件
6月28日、政府転覆容疑で数人の軍人逮捕
6月29日、クーデター未遂
7月5日、内閣改造
7月25日、トラック業者の一斉無期限スト突入
7月27日、アラジャ海軍大佐暗殺
7月31日、運送業者・商店等がストに突入
8月4日、全国に非常事態宣言
8月7日、各地で鉄道や石油パイプライン爆破
8月8日、再度エル・テニエンテ銅山スト
8月9日、海軍、バルパライソの海兵反乱計画発覚を公表、CUT(労働者統一中央組織)は政府支持のデモ
8月24日、ピノチェトが陸軍総司令官就任
8月28日、内閣改造
9月5日、国民党、政権打倒までスト続行を提案、アジェンデは人民連合に国民投票実施を提案
9月6日、米国艦隊、バルパライソ出港拒否
9月9日、キリスト教民主党全国大会でアジェンデ辞任要求
9月10日、デービス米国大使が合衆国へ帰任
9月11日、海軍に続き空軍、陸軍が蜂起、国家警察隊内部でクーデター、アジェンデ死亡

サルバドール・アジェンデ
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クーデター

decisivo.jpg 1973年9月11日、陸・海・空および警察軍との合同クーデターによって、当時のサルバドール・アジェンデ社会主義政権は瓦解する。(モネダ宮内部からの観察は『アジェンデと人民連合』(J・E・ガルセス、後藤政子訳、時事通信社 1979)に詳しい。対して軍側のいきさつは『チリの決断』(A・ピノチェト、G・ポンセ訳、サンケイ出版 1982)に詳しい)。
チリの軍隊では伝統的に「政治に介入せず」という姿勢が堅持されていた。ために南米にあっては「スカートをはいた軍隊」などとも揶揄された。「チリ軍人の憲法の精神に基づく政治的無関心さ」(CIA)。
歴史を変えるクーデターに至った主な理由として、一般には、当時の世界の政治思想のうねり、チリの社会階層、保守・中間・労働の各イデオロギーの闘い、硝石と銅の生産に極端に依存していたモノカルチャー経済が弱点を晒したこと、極度のインフレにさいなまれモノ不足が生じ市民生活が困窮したこと、軍内部にマルキシズムへの危機感が蔓延したこと、左派にテロなど武力攻撃を用いる勢力があり政策に統一と統率を欠いたことなどが挙げられる。

私は、共産主義が大変な危険思想であることを、信じて疑わない (A.Pinochet 著 『チリの決断』から引用、以下同じ)

 そして、過剰なまでの米国による干渉があったとされる。東西冷戦のさなかになって、ソビエトやキューバに神経を尖らせていた合衆国が黙っているはずはなく、公に、または秘密裡に、徹底したアジェンデ打倒、マルクス主義打倒工作を施し、経済を破綻へ導き、実際にクーデターへ至らせた。

「いくらでも使ってよい......いかなる危険があろうとかまわない......使える資金は1000万ドル、必要ならばもっと......さまざまなケースを想定した計画を作製する......チリ経済をしめあげる」(ニクソン、キッシンジャーらのホワイトハウスにおける会合のメモ)
もはや文民(シビリアン)政府の制度に戻ることは不可能だと確信するに至った (A.Pinochet)

 上記の表中、シュナイダーとプラッツの両軍人は、憲法遵守の精神を固持する立場をとり貫徹したがため、暗殺された(プラッツはクーデター後の74年にブエノスアイレスで暗殺された)。一方、ピノチェトは、「祖国チリがマルキシズムに洗脳され、ソビエトの衛生国と成り果てるのを防ぐため」秘密裡に万全の準備を整え、その日を迎えた。ピノチェトはその前夜について述べている。

率直に言えば、一睡もできなかった。私の人生で、最も長い夜だった (A.Pinochet)

 当時のアジェンデ、ピノチェト両人の音声記録は、チリのいくつかのメディアで聴くことができる。アジェンデのそれは死の直前の有名な最期のラジオ演説のものが有名。

反動と結託した帝国主義が軍の伝統を軍みずからが破るような情勢を創り出した......自由な人間にとってより良い社会の建設のための大きな道が切り拓かれるのはそれほど遠くない......チリ万歳、人民万歳、労働者万歳! これが私の最後の演説である (S.Allende)

 また、テレビシオン・ナシオナル(TVN)ホームページにはクーデターの映像アーカイブがある。

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 アジェンデは死亡した。他殺とも自殺ともいわれるが真偽はわかっていない。アジェンデの側近医師だったパトリシオ・ヒホン博士(Dr. Patricio Gijon、当時41)の証言は以下。

「胸像の置いてある回廊から出るとき、私は自分の防毒マスクを取りに戻ろうと思いました。そのとき部屋のひとつのドアが開いているのに気づき、私は本能的に中を覗いてみました。すると、まさにその瞬間、私は大統領がソファに座り、自分の足の間に挟んでいた機関銃を発射するのが見えたのです。私はそれを見ましたが、不思議にその音は聞こえませんでした。彼の体が揺れるのが見え、そして彼の頭部が飛んだのを見たのです」(『チリの決断』 A・ピノチェト)

 医師は事件のあと14週間、南の果てのドーソン島に収容された。

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軍事政権

 軍事評議会が実質の政権を握り、1925年憲法を無効として強権発動、戒厳令が敷かれたのち、ピノチェトは第34代チリ共和国大統領となる。
ここまでは、当時の南米ではむしろ常套的に発生した政治変動ではあったが、問題は、以降ピノチェト政権が行った「左翼狩り」にある。

まだ過激主義者が残っている現在、マルクス主義者による抵抗は終わっていない。内戦状態は続いている。そのため戦時法規の適用は必要なのだ (A.Pinochet)

キッシンジャーとピノチェト
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クーデター後に設置された軍事評議会の各首脳。 左から警察軍のメンドーサ長官(General de Policia, Cesan Mendoza)、 海軍のメリノ提督(General de la Marina, Jose Toribio Merino)、 陸軍のピノチェト大将(General, Pinochet)、 空軍のリー大将(General de Aviacion, Gustavo Leigh)
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 軍は人民連合派とみられる人々を徹底して逮捕し、拷問あるいは虐殺したといわれる。北部の砂漠地帯やマゼラン海峡の無人島に設けられた収容所には5万人を超える政治囚が送られたともいわれる。現在でもこの人権蹂躙問題は解決を見ないが、とりわけ大きな事件は死のキャラバン事件(Caravana de la Muerte)、レテリエル暗殺事件(Caso Letelier)、プラッツ暗殺事件(Caso Prats)、トゥカペル・ヒメネス事件(Caso Tucapel Jimenez)など。
一方で経済は再生し、徐々に治安を確保して78年には戒厳令を解除し、80年に新しい憲法を発布した(この憲法には国民投票で67%の賛成)。おおむね年率8パーセントの経済成長を実現してみせた。
だが外国投資に依存したため対外債務は拡大し、84年末の時点で累積債務はGDPの8割にも相当した。インフレに悩まされ、失業率も約20パーセントに上昇。「金はあったがモノがなかった」アジェンデ政権期に比して「モノはあるが金がない」苦境にあったとされる。
このころから反軍政デモが続発するようになり、ピノチェトは対話を試みた一方で容赦なく発砲もした。左翼武装組織のマヌエル・ロドリゲス愛国戦線(FPMR)などは爆弾テロなどの手段で活発に活動するようになり、ついには84年11月に戒厳令を再度布告、この後、弾圧が激しくなる。85年3月には共産党員とみられた大学教授ら市民3人が秘密警察により虐殺され、反政府運動もまた高揚。
85年6月には戒厳令は解除されたものの、ついには警察軍長官が辞任。中道・右派の11の政党が団結して「完全民主化のための国民協定」を締結、大統領の直接選挙制度復活や市民的自由の回復などを要求。
86年にはピノチェト大統領暗殺未遂事件が発生(警衛5名死亡、ピノチェトは負傷)、三たび戒厳令が敷かれ、ピノチェトは「マルクス主義との戦争」を宣言。「内戦か平和か、外圧か祖国か、マルクス主義か民主主義か」の択一を国民に迫り「人権(Derechos Humanos)」を語ることは許されぬ状況となった。武力による強権発動が反政府運動を沈静化した。
その後の反政府運動は穏健派と急進派に分裂、総体的に弱体化を招いた。ピノチェト軍事政権は結局地盤を固めるに至り、その余裕もあって86年12月がらは亡命者の帰国を許すほかマルクス主義を除く政党の合法化など緩和策を打ち出した。戒厳令は解除、クーデター以降ほぼ継続していた夜間外出禁止令も解除した。

ヨハネパウロ2世チリ訪問(1987年4月)

 南米にあって最も保守的なカトリック国のひとつであるチリでは教会の発言力は極めて強大である。1987年4月、ヨハネパウロ2世ローマ法王がチリを訪問。これは大きな転換点となったという。

 チリの教会内部でも思想は統一されていたわけでもない。神父の中には、左翼ゲリラの活動を容認し支持する者もおり、ピノチェトは、法王がこうした進歩派勢力を批判し、たしなめることを期待した。しかし法王自身はピノチェト政権を「独裁」と公言した。また法王は、フィリピンのマルコス政権崩壊時に教会が果たした役割(民主化の先導)を、チリ教会も遂行すべきと述べた。スラムにも赴き、説教した。

 「正義のために連帯を。教会は行動を起こさなければならない。それは神の思し召しだ」
「すべてのチリ国民に、等しく、政治と司法の権利と、自由で活発な参加を」

 ピノチェトからすれば内政干渉にも等しい法王の発言は、民主化勢力の主張に正当性を与えた。法王はまた暴力やテロリズムを強く否定し、社会正義の実現を説いた。結果としてローマ法王のチリ訪問は、ピノチェトにとって都合の良いものにはならなかった。
軍もまた一枚岩ではなく、軍政維持を意図する勢力と、早期の民政移管を主張する勢力があり、とりわけ空軍は反ピノチェトの色彩が強く、陸軍内部でも相次ぐ虐殺などに批判的な勢力があった。海軍のメリノ総司令官は野党との対話の必要性を説いていたし、空軍のマテイ総司令官は89年に民政移管を目指し憲法を改正するよう主張し、警察軍のスタンへ長官もまたこれを支持した。つまり4軍のうち3軍がピノチェトの専横をけん制。
国内の政治勢力は、(1)ピノチェト支持、(2)軍内部の反ピノチェト派と野党穏健派、(3)野党急進派に分かれた。
これに大きな影響を与えたのは、主に教会と米国の政策であったという。
教会の思想はローマ法王のチリ訪問で施策は一体化し、人権擁護と民主主義確立の方向で基盤は固まった。
一方、米国は共産主義の芽を摘むために、国連のチリの人権侵害批判決議には一貫して反対票を投じてきたものの、ピノチェトの長期政権化を危惧し不快感を表すようになった。軍政への反感がかつてのアジェンデ時代への回帰を募らせるようになるのもまた不都合だった。
88年10月、ピノチェトは信任を国民に問うた。国民投票(Plebiscito)は、「Si」か、「No」か、いずれかを投じるのみのものだったが、「No」が過半を占め、これにより民政への移管が現実のものとなる。
翌89年、大統領選挙でパトリシオ・エイルウィン(Patricio Aylwin)が軍政派エルナン・ビュッヒに勝利。翌90年、平和裡に民政への移管が果たされる。

民政移管後

 エイルウィン政権(~94年)とフレイ政権(94年3月~2000年)は、ピノチェト政権時代の弾圧による死者が2095人、行方不明者1102人、計3197人が犠牲となったという公式調査で結果を公表している。他方、ピノチェト軍政下では約2万人が殺害されたという説もある。
ピノチェトは大統領退任後も陸軍司令官として軍の指揮を執り続けたが、1998年3月に辞任。法的訴追を受けない特権を持つ終身上院議員に就任した。

 98年10月14日、スペイン全国管区裁判所のガルソン予審判事が、国際刑事警察機構(インターポール)を通じてピノチェトの逮捕をイギリス当局に要請。ピノチェトは滞在先のロンドンで16日、ロンドン警察に逮捕される。容疑は、73年9月11日から83年12月末の間に、スペイン系市民が殺害されたという容疑であった。これに誘発されるように、欧州全域に亡命したチリ人が次々にピノチェトを提訴する。
フレイ大統領は外交特権侵害だとして英国政府に抗議、右翼勢力はサンティアゴの英国・スペイン大使館周辺で抗議行動を起こし、また反ピノチェト派は支援行動を起こした。再びチリ国内世論は左右に分かれた。

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 10月28日、英高等法院は、他国の国家元首の在任中の行為について英国では裁けないとの判断を示し、ピノチェトの免責特権を認め、スペイン司法当局の要請に基づく英警察による逮捕は違法との判断を下したが、99年3月24日、英上院は、ピノチェト元大統領の免責特権を否定し、逮捕を適法とすることを6対1で裁決。1988年9月29日以降のピノチェト元大統領の拷問の人権抑圧に対する罪を英国で問えるとの判断を下す。
その後も紆余曲折を経て、2000年1月11日、英国のストロー内相は、ピノチェトがスペインでの裁判に耐えられる健康状態にないとの医師団よる診断結果を明らかにするとともに、スペイン司法当局からの身柄引き渡しを要請を拒否する意向を示した。そして3月3日、ピノチェトはチリ空軍機でチリに帰国。英国での逮捕から約17か月ぶりに帰国した。

 2002年11月23日、モネダでアジェンデの傍にいた元秘書のミリア・コントレーラス女史(Payita)が死去。アジェンデ側近に、もはやクーデターの証人はいない。
2003年11月24日、ピノチェトは、マイアミのテレビ局「22チャンネル」のインタビューを受け、その大統領在任中にチリで起こったさまざまな出来事(人権問題等)に関して、「何ら謝罪することはない」と述べた。さらに自身が86年にマヌエル・ロドリゲス愛国戦線(FPMR)に暗殺されそうになった事件を挙げ、マルクス主義・共産主義から、むしろ「謝罪されるべき」 との認識を示した。 また自叙伝を執筆しているとも述べた。
2004年7月、米国の地銀・リッグス銀行が、ピノチェトの金融資産隠しに手を貸していた事実が米議会上院の調査で判明、ピノチェトの親族にも捜査の手が伸びた。また同年8月、議会はピノチェト軍政下などで反体制活動を行った服役者32人に対する特別恩赦法案を承認した。
また2004年12月13日、サンティアゴ控訴裁のグスマン予審判事は、ピノチェト元大統領について、「精神鑑定の結果、痴呆症状はあるが裁判には耐えうる」との判断を下し自宅軟禁を命じた。これは70年代半ばの Operacion Condor (コンドル作戦)と呼ばれる事件についてのもの。
ピノチェトは大統領時代の人権侵害など、約300件ですでに起訴され、元大統領に与えられた免責特権を剥奪する決定は相次いでいたが、自宅軟禁まで踏み込んだ決定は初めて。しかし弁護側は、これまで同様に痴呆のため裁判に耐えられないと最高裁に上訴。しかし最高裁がこれを却下した。
2005年1月5日、ピノチェトを誘拐・殺人の罪で起訴することを認めた最高裁判断を受け、元大統領に自宅軟禁が言い渡され、法廷で裁かれる可能性が濃厚となった。元大統領の健康状態について、複数の精神科医が「痴呆で裁判には耐えられない」との鑑定書を提出しているが、グスマン予審判事は自分自身でピノチェト氏から事情聴取した結果、「質問を理解し的確に答えることができる」と判断したと説明した。

 チリの街角には(かなり減ったものの)落書きが目立っていた。『Justicia y Verdad(正義と真実を)』という言葉は、強固な民主主義の伝統を端的に示していたように思われた。